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レファレンス事例集

Q 82 再開発の進む富山市西町周辺について、明治から平成にかけての歴史を知りたい。
A 82 富山市西町は、図書館本館や、富山市ガラス美術館の入るビル(TOYAMAキラリ)の建設をはじめとして再開発が進み、今、注目を集めています。

まず、明治から大正にかけての街の様子を調べるために、「西町」や「総曲輪」をキーワードに資料を探してみました。すると、『総曲輪物語 繁華街の記憶』(桂書房 2006)や、『総曲輪懐古館』(巧玄出版1977)にその一端が綴られていました。

それらによると、総曲輪が繁華街として発展していくきっかけは、浄土真宗の本願寺派、大谷派の両別院が、濠を埋め立てて建設されたことにありました。明治21年に両別院の仮本堂が完成すると、多くの信徒がお参りに集まり、そば屋や弁当屋などの商店が軒をつらねて、発展の基礎となっていったことがわかります。やがて、芝居小屋や映画館も完成し、大変華やかであったようです。

また、『大正職業別明細図之内富山市』(地図資料、複製)では、大正14年当時の商店などの名前を見ることができました。ちなみに、新図書館の入るビルのあたりを見ると、乾物店や金物店といった商店が連なっています。

さて、昭和に入るとデパートが街のシンボルとなりました。大正12年、富山のデパートのさきがけである「岡部呉服店」が完成し、昭和7年には大和富山店の前身、宮一大丸が開設されます。

『大和五十年のあゆみ』(金沢大和 1972)には、その近代的なビルの写真が掲載されています。また、開設の際の店員募集には、女性店員45名の採用に対し、550余人の応募者があったことが書かれており、デパートガールは当時の憧れの職業であったようです。

『大和五十年のあゆみ』には、「昭和20年8月1日戦災で焼け落ちた富山店」と題して、富山大空襲の被害にあったビルの写真も掲載されています。その様子は、『富山戦災復興誌』(富山市 1972)でも、写真で確認することができました。

また、編年体でまとめられた『富山市史第3巻』(富山市 1960)の昭和20年の項を開くと、「昭和二十年八月十八日 大和富山店は戦災後休業していたが、疎開先から商品を取り寄せ、本日から営業を開始した」とあります。同じく昭和20年11月には、大和富山店の6階を改装して映画劇場とし、戦災市民に三日間無料公開したことが記され、空襲の惨禍からいち早く立ち上がった様子がうかがいしれます。

戦後の街の様子は、『石川富山昭和あのとき ストーリー編』『同、アルバム編』(北國新聞社、富山新聞社 2014)に、豊富な写真で掲載されています。昭和30年代の中教院夜店の様子や、初売り客でにぎわう40年代の中心商店街の写真が並び、往時をしのぶことができます。

しかし昭和60年代に入ると、郊外に大型店が次々に完成した影響もあり、客足は減少していきます。『富山市歩行者通行量調査』(富山商工会議所 1991)を見ると、中央通りにあったマクドナルド前の日曜日の通行量が、昭和47年では4万人近くになっていますが、それ以後は大幅に下降していったことがわかります。

平成に入り、富山市中心市街地の活性化が計画されると、平成19年には「富山市まちなかにぎわい広場」(愛称:グランドプラザ)が完成しました。『にぎわいの場 富山グランドプラザ』(学芸出版社 2013)では、新たな賑わいを創出するための仕組みがわかりやすく紹介されています。新図書館の入るビルをはじめ、これからの街の発展が楽しみです。

Q 81 八尾和紙が、どのように使われてきたか知りたい。
A 81 まず概要をつかむため、和紙について書かれた参考資料を調査しました。『和紙文化研究事典』(法政大学出版局 2012)の「八尾紙」の項目には、主に売薬用紙についての記述がありました。そこには、「薬包紙・膏薬原紙・袋紙・紐紙・荷造り包み紙から帳簿紙・合羽紙まで、厚薄・大小さまざまであるほか、染色したものも含んできわめて多種であった」と書かれていました。売薬用紙以外にも、傘や提灯、障子用の紙がつくられていたようです。
さらに、『富山県史 民俗編』(富山県 1973)を調べました。時代ごとの使われ方の違いについては書かれていませんでしたが、版画用紙、障子紙、提灯紙、傘紙、帳面紙、売薬袋紙などに使われたとありました。「中でも傘紙とか提灯紙がこの八尾紙として有名であった」という記述もみられました。『八尾町史』(八尾町 1967)にも同様の記述があり、産地ごとの和紙の特色が詳しく書かれていました。
 
次に時代ごとの使われ方を詳しく調べるため、和紙関連の郷土資料を確認しました。『北陸産紙考 下』(紙の博物館 1978)の「八尾産紙と売薬紙」の章に、八尾和紙の歴史に関する詳細な記録が載っていました。八尾和紙の歴史については、「天正十三年(一五八五)、前田氏が領有しない以前は、京都禁裏の御料地であったが、その頃すでに紙が漉かれ、紙の租税を納めていた」とありました。売薬業によって発達する前にも、税として用いられていたようです。その後、八尾和紙のほとんどが売薬で消費されるようになると、両者は密接不離の関係になっていったと書かれていました。
明治時代中期頃から、製紙工場の発達により洋紙が主に売薬紙として用いられるようになりました。すると、売薬紙本位の体制から、傘紙や障子紙など、一般紙を主体とするように切り替えられていったそうです。時代の流れとともに、需要に合った和紙の生産が行われていたことがわかります。
昭和時代には、軍需用紙としても八尾和紙が使われ、「軍需用紙としては火薬包装紙、軍隊手帳用紙、食糧袋紙などであったが、戦時中は風船爆弾用紙も漉いた」と書かれていました。敗戦後には、多量の使い残りが下駄の鼻緒やレインコートに使われたそうです。
 
時代の移り変わりとともに、さまざまな用途をたどってきた八尾和紙ですが、現在はどのように用いられているのでしょうか。
『富山の地域研究』(東京都立大学 2005)では、「おわら」によって土産物としての八尾和紙が認知度を高めていったと記述されています。一般に流通する紙がほぼ洋紙に切り替わったため、八尾和紙は加工品として生き残りを図りました。しかし、当初は他の紙産地との競合により、少しずつ衰退していきます。
その後、おわらによる八尾の観光化が進んだことにより、多種に及ぶ魅力的な加工品がある八尾和紙が、土産物として注目されるようになりました。
現在では、八尾だけでなく、富山駅前や高岡市の土産店で販売されるなど、富山の代表的な土産物となっています。
Q 80 東京の銭湯経営者に、富山県出身の人が多いのはなぜか。また、最近、東京の銭湯に立山の絵が描かれるようになったのはどうしてか。
A 80 まず、「東京の銭湯経営者に、富山県出身の人が多いのはなぜか」という点について調査しました。

 『富山県史 通史編5 近代 上』(富山県 1981)を見てみると、「富山県の人口の推移」の項目に、明治期の出稼ぎについて記載されていました。行き先別・職種別の欄には、「東京-商業等各種職業」とありますが、銭湯などの詳細な職種までは記述がありません。『富山市史 通史 下巻』(富山市 1987)にも、該当するものは見当たりませんでした。

そこで、銭湯をテーマにした資料を見てみました。『銭湯』(日本放送出版協会 2009)、『入浴・銭湯の歴史』(雄山閣 1994)を調べましたが、経営者の出身地に言及してある部分はありませんでした。『銭湯の謎』(扶桑社 2001)を見てみると、「銭湯と北陸の知られざる関係」のページに、「東京の銭湯の初代経営者の7、8割は北陸3県の出身者であることがわかった。」と書かれています。北陸は出稼ぎが多かったこと、のれん分けの際には身内を郷里から呼び寄せたためではないかと、著者は推察しています。

また、商業関係の資料として、「商工とやま」(富山商工会議所)のバックナンバーを調査しました。平成18年12月号に、銭湯についての特集記事があり、「東京に富山出身の銭湯経営者が多い理由」というコラムが掲載されています。家督が継げない次男や三男にとって、一旗揚げるために、銭湯は最適の仕事だったのかもしれない、と記載されていました。  

次に、「最近、東京の銭湯に立山の絵が描かれるようになったのはどうしてか」という点について調査しました。

最近の出来事であることから、新聞記事に記載がないかと考えました。富山県立図書館のホームページにある「県内新聞雑誌記事見出し検索」で、〈銭湯〉というキーワードから検索を行います。その結果、北日本新聞の平成22年2月23日、7月8日、23年8月13日に、「東京都内の銭湯の背景画に立山が描かれている」ことが分かりました。

 実際の新聞記事を見てみると、富山市物産振興会が富山市の助成を受け、「ホットして富山市PR事業」を行っていることが説明されています。これは、平成22年度から始まった事業で、富山市の魅力をアピールするため、湯船の背景に立山連邦や富山ライトレールを描いたものです。銭湯の背景画といえば、富士山が一般的ですが、首都圏において、富山ブランドや平成27年春に開業する北陸新幹線を広く知ってもらおうという狙いがあるようです。

富山市のホームページから、「広報とやま」のバックナンバーを検索すると、平成23年1月5日号にも同様の記事がありました。  富山市物産振興会のホームページでは、雄大な背景画の写真を見ることができます。また22~24年度に背景画が描かれた、15ヶ所の銭湯の一覧も掲載されています。  

Q 79 <山部赤人>が富士の山を詠んでいる。人物についてと、どのような歌か知りたい。
A 79  まず、人物について調査しました。『新潮日本文学辞典』(新潮社 1988)や『和歌・俳諧史人名事典』(日外アソシエーツ 2003)に山部赤人の項目があり、奈良時代の歌人で万葉集に作品が載っていることが分かりました。『日本古典文学大事典』(岩波書店 1985)でも調べることができ、人物など詳しく書かれています。

次に、万葉集に関する辞典を調べました。『万葉集事典』(学灯社 1994)の中の万葉集全作者事典の部分に、山部宿禰赤人(やまべのすくねあかひと)として人物の紹介が載っていました。『万葉集歌人事典』(雄山閣 2007)の作者・作中人物のところにも山部宿禰赤人が載っており、こちらはかなり詳しく紹介されています。『万葉集講座 別巻 万葉集事典』(有精堂 1975)では、作者別研究史に山部赤人があげられ、評価や作品研究が載っています。

この他の図書では、『日本詩人選3 高市黒人・山部赤人』(筑摩書房 1971)、『和歌文学大系17 人麻呂集(赤人集 山部赤人)』(明治書院 2004)、『さまよえる歌集 赤人の世界』(集英社 1979)があります。
続いて、山部赤人が詠んだ富士の山について調査しました。『万葉集歌人集成』(講談社 1990)に山部宿禰赤人(山部宿禰明人)の項目があり、簡単な人物紹介のあと、

“天地の分れし時ゆ神さびて 高く貴き駿河なる 布士(ふじ)の高嶺を天の原 振り放け見れば渡る日の 影も隠らひ照る月の 光も見えず白雲も い行きはばかり時じくそ 雪は降りける語り継ぎ ”

という歌が載っていました。反歌(長歌の後に置かれる短詩形の詩(『和歌大辞典』(明治書院 1986 ))として、

“田児の浦ゆ うち出でて見れば 真白にそ 不尽の高嶺に 雪は降りける”

があがっており、山部宿禰赤人が詠んだ他の歌も載っています。それぞれ万葉集の巻と番号が付いていて、“天地の・・・”は、『万葉集』の3巻の317であることが判明しました。

巻と番号がわかれば、『新日本古典文学大系1 万葉集1』(岩波書店 1999)や『新編日本古典文学全集6 万葉集1』(小学館 1994)等で、解説を読むことができます。

万葉集に関する資料は数多くありますが、事典では『万葉集ハンドブック』(三省堂1999)がわかりやすくまとめられています。万葉集の成立や秀歌、万葉人の暮らしや表現、主要歌人、地図や年表が載っています。秀歌の部分には、山部赤人に関する記述があり、“山部宿禰赤人の不尽山(ふじやま)を望める歌一首”として、前述の歌と反歌が、また、主要歌人部分に山部宿禰赤人が紹介されていました。

万葉集で詠んでいる人物が分からない場合には、『万葉ことば事典』(大和書房 2001)で言葉から調べることができます。“ふじ(不尽)”の項目があり、山部赤人の著名な「望不尽山歌」として“天地の・・・”があげられています。ちなみに、「富士」という表記は平安朝になってから定着したものと書かれていました。この他、『万葉びとの心と言葉の事典』(遊子館 2011)では、歌い出しの言葉から探せます。  

Q 78 富山県内に伝わる民話に『金のおの銀のおの』がある。イソップ物語にも同じ話があるが、これらに関連性はあるか。
A 78 富山県に民話として伝わっているということだったので、いくつか資料を確認してみると、『富山県の民話』(偕成社 1982)に小杉町(現:射水市)の昔話として「金のおの銀のおの」が記載されていました。〈木こりが斧を池に落とすと、中から水神がでてきて、金の斧、銀の斧を差し出す。正直な木こりが違うと答えると、神は正直者だとほめ、金銀の斧も与える。それを強欲な隣人が真似るが失敗し、自分の斧も失くしてしまう。〉といった内容のお話でした。稗田菫平による再話とのことですが、採取先は書かれていません。稗田菫平の解説によると、正直な爺と欲ばり爺が対比して語られる〈隣の爺〉型の昔話で、『イソップ物語』にもあり、明治時代には国語の教科書にも載っていたということです。

県内に他に伝承されている地域はないか確認するため『日本昔話通観 11 富山石川福井』(同朋舎出版1981)を確認すると、「金の斧」の典型話として富山県射水郡小杉町黒河の話が〈原題・堤で斧もろた木挽〉として収載されています。内容は『富山県の民話』と同じでした。県内に類話はありませんが、福井県南越地方に類話があることがわかりました。上記の資料の原資料として紹介されている『越中射水の昔』(三弥井書店 1971)をみると「堤で斧もろた木挽」として小杉町黒河の黒田弥一郎から採取したと書かれています。この資料には昔話を伝承した人々の紹介や写真があり、昔話が身近なものであったことが感じられます。 

『日本昔話名彙』(日本放送協会 1971)を調べたところ「黄金の鉈」の項目で岩手県の同様の話が紹介されていました。この資料では岩手県のほか、福島県・愛知県・大分県に類話があると紹介しています。 また、『日本昔話集成 第二部本格昔話 2』(角川書店 1953)には「黄金の斧」として山梨県の話が収録されており、類話として岩手県・福島県・山梨県・広島県にみられると紹介されています。また中国にも類話があり、イソップにも見られるが世界的に分布しているかは不明、日本の話がイソップによって文献として輸入されたものか、それ以前のものか明らかにすることは困難であるとしています。  

『日本昔話ハンドブック』(三省堂 2010)では「『イソップ寓話集』「樵夫とヘルメス」で有名な昔話で、ほぼ本土全体で伝えられる。アジアから東欧、南欧にも分布は広がるが、フランス、ベトナム、カナダ、とフランス語圏の地域が中心となる」との記述がありました。  

イソップとの関連性は確認できませんでしたが、多くの地域で魅力的な昔話として親しまれてきたようです。

Q 77 日本料理の「五味・五色・五法」の内容を知りたい。
A 77 まずは、オンラインデータベースの「ジャパンナレッジプラス」を使ってみます。この「ジャパンナレッジプラス」は、『日本大百科全書』(小学館)や『日本国語大辞典』(講談社)、『国史大辞典』(吉川弘文館)等の一般的な百科事典や、いろいろな言語の辞典に掲載されている項目を、一度に横断的にキーワード検索できるため、言葉の意味、内容を調査する際に大変便利なツールです。

こちらで検索してみると、『日本国語大辞典』の<五味>の項に「食物の、甘(あまい)・酸(すっぱい)・辛(からい)・苦(にがい)・鹹(しおからい)の五種の味の総称。」と書かれていることがわかります。

『日本大百科全書』の<五味>の項には「酸味、苦味(にがみ)、甘味、辛味、鹹味(かんみ)(塩味)の5種の味。これに淡味を加えて六味という。」と6つ目の味についても書かれていました。その他の事典類にも<五味>については類似した内容が書かれていましたが、<五色>、<五法>については、いずれも項目はあるものの、料理で使われる意味のものはありませんでした。

次に料理関係の参考図書を調査します。『調理用語辞典』(全国調理師養成施設協会 1986)、『飲食事典』(平凡社 1977)にも<五味>の項目があり、上記資料と同様の内容が書かれていました。『語源由来日本料理大事典』(ニチブン 2000)には、加えて<五色>の項目もあり、「赤、白、黄、緑、茶など5色の色に染めた料理や5種類の材料を用いた料理につけられる名称」とありました。

今度は、食文化に関する参考図書を調査してみます。『たべもの起源事典』(東京堂出版 2003)の<精進料理>の項に、曹洞宗の開祖道元禅師の思想があり、「五法とは、生のまま・煮る・焼く・揚げる・蒸すの加熱調理を指し、五味とは辛・酸・甘・苦・鹹の調味形態を指し、五色とは青・黄・赤・白・黒の色彩感覚を指す。」とありました。『日本古代食事典』(東洋書林 1998)には、鎌倉時代初期の栄西禅師の記した『喫茶養生記』から、<五味>について詳細に書かれていました。

その他に料理関係の主題書を調査してみたところ、『いちばんやさしい日本料理』(成美堂出版 2010)の「日本料理の歴史」の項にも<五味>、<五色>、<五法>についての解説があり、仏教の「食法一如(しょくほういちにょ)」の思想によるものだとわかりました。

『英語対訳:外国人に教える日本料理の楽しみ』(はまの出版 1995)には「生(切る)、煮る、焼く、揚げる、蒸す、を五法といいます。五味とは、甘い、塩辛い、酸っぱい、苦い、辛い。五色とは、白、黒、黄、赤、青(緑)のこと。」と書かれていました。この資料にはそれらに加えて、「五感とは、視覚、(見た目の美しさ)、聴覚(音)、嗅覚(香り)、触覚(温かさ、冷たさ)、味覚(味)の五つです。」とも書かれていました。

また、いずれも「5」という数字が付いているので、数詞の辞典から『日本名数辞典』(東京堂出版 1979)や『名数数詞辞典』(東京堂出版)、『日本数字用語辞典』(日本文芸社 1980)を確認しましたが、いずれも<五味>のみが記載されていました。

Q 76 岩瀬の北前船「長者丸」の漂流事件について知りたい。
A 76  富山に関わりのある事柄を調べる事典として、『富山大百科事典』(北日本新聞社 1994)、『富山県大百科事典』(富山新聞社 1976)がある。それぞれ「長者丸」の項目を見ると、同船は江戸時代、太平洋を漂流しアメリカの捕鯨船に救助された北前船で、西岩瀬を母港としていたことがわかった。

『富山大百科事典』には参考文献として、『時規物語(とけいものがたり)』『蕃談(ばんだん)』の二書があげられていた。これらについて調べてみると、いずれも、帰国した乗組員に直接取材した江戸時代の記録書であり、『日本庶民生活史料集成 第5巻 漂流』(三一書房 1973)に収録されていることがわかった。両書ともに図版を多く収録し、乗組員の仮寓先であったハワイ・オホーツク等における現地の風俗が豊富に掲載されている。漂流の経緯もさることながら、鎖国時代の日本人の目に、海外の様子がどのように映ったかを知る手がかりとなる。これらは文語表記であるが、『蕃談』は現代語訳されたものが、『蕃談 漂流の記録1(東洋文庫 39)』(平凡社1965)として、別に刊行されている。

また、『富山県大百科事典』には、文豪・井伏鱒二はこの事件を取材し、『漂民宇三郎(講談社文芸文庫)』(講談社 1990)を書いたとの記述がある。同書は『時規物語』『蕃談』を基にしているが、主人公の乗組員・宇三郎は、架空の人物であり、ストーリーにも創作部分が見られる、独自の作品である。

次に、「北前船」をキーワードに資料を探した。『漂民次郎吉 太平洋を越えた北前船の男たち』(福村出版 2010)は、「歴史ドキュメンタリー」として小説風に書かれた作品である。事件の全体像が読みやすく描かれている。

『北前船長者丸の漂流』(清水書院 1974)は、『時規物語』を分析し、考証を加えた研究書である。「第5章 幕末日魯交渉史との関連」「第6章 幕末日米交渉史との関連」においては、オホーツクで乗組員たちと遭遇したイギリス人の回想録など、外国人側の記述と、『時規物語』の記述を照合し、両者の視点から、幕末期日本の対外関係を明らかにする試みがされている。

さらに、岩瀬の郷土史に関する資料を調べてみた。富山市岩瀬地区には、郷土史研究グループ・東岩瀬郷土史会があり、『東岩瀬郷土史会会報』を定期的に発行している。その中に「次郎吉漂流の物語 -幕末にハワイ、ロシアを見た『長者丸』の乗組員-」(第8号 1983)、「長者丸の漂流と富山売薬薩摩組」(第47号 1993)といった、長者丸漂流事件に関する論文が掲載されている。これらはのちに『東岩瀬郷土史会会報合本 第1分冊~第3分冊』(東岩瀬郷土史会 2007)に再録された。富山の郷土史研究雑誌には他に『富山史壇』等があるが、これらには単行本に収録されていない論文が多く掲載されており、郷土史に関連する事項を調べたい場合には、一見の価値がある。

また、富山市郷土博物館が平成23年に、この長者丸漂流事件を読み物風に扱った、『春の曙 徒然はなし』と題された江戸時代の写本を入手し、新発見資料として話題になった。当時からすでに、世間の注目を集めた事件であったことを示す資料といえる。

Q 75 富山から東京までの列車の所要時間は、どのように推移したかを知りたい。
A 75  2015年春、富山県に北陸新幹線が開通する予定である。富山から東京までの所要時間は2時間7分になり、現行の3時間11分よりも約1時間短縮されることになる。今回は、富山~東京間の列車の所要時間が明治~昭和にかけてどのように推移したのかを探ってみた。
 
1.明治 ―鉄道の開通―
日本で初めて鉄道が開通したのは、明治5年(1872)9月の新橋-横浜間である。富山県では、明治30年(1897)の黒田(現・高岡市)―福野間で開業した中越鉄道が最も古い。官設の北陸線は、「鉄道敷設法」(明治25年)に基づき、敦賀から延長され、明治31年(1898)11月1日に金沢-高岡間が、32年3月20日に高岡-富山間が開通した。
(『近代史研究 第22号』(富山近代史研究会 1999)、『とやま近代化ものがたり』(北日本新聞社 1996)による)
『富山地方鉄道50年史』(富山地方鉄道 1983)には、「運転回数は1日6回の発着にすぎなかったが、ここで初めて鉄道によって関西直結を果し、米原を経由すれば24時間で東京にも通じることとなった」と記載されている。
富山県の鉄道に関する記録が網羅されている 『鉄道の記憶』(桂書房 2006)には、明治41年(1908)に富山-新橋間に直通列車が開通した記事と発着時刻が紹介されている。(「富山日報」記事より)
午後7時7分富山発  翌日午後5時20分新橋
午前9時新橋発    翌日午前9時45分富山
午前5時35分富山発  同日午後9時47分新橋
この記録によると、所要時間が16~25時間とかなり差があったようだ。

2.大正 ―北陸本線全線開通―
路線は、明治41年11月16日に富山-魚津間が、43年(1910)に泊までと順次延長され、大正2年(1913)4月1日には米原-直江津間が全通した。
『鉄道の記憶』には、この結果米原経由で大きな迂回を要していた東京方面への距離・運賃は大幅に縮減し、所要時間もそれまでの20~21時間台から14時間台にスピードアップされたとある。

3.昭和 ―所要時間の大幅な短縮―
『富山県史 現代』(富山県 1983)には、富山から上野間の所要時間短縮の推移がグラフで示されている。
昭和20年(1945) 12時間10分、
昭和40年(1965) 6時間55分、
昭和53年(1978) 5時間45分
所要時間は、昭和20年から53年の33年間で、半分以下に短縮されている。
その後、平成9年(1997)のほくほく線開業や列車の速度が上がったことにより、さらに所要時間は短くなってきた。
 
4.旧舎・旧線について
明治32年開業当時の富山駅は、現在の田刈屋に仮設された。しかし、9年後の明治41年には現在の位置で新しい富山駅が開業し、旧駅は廃止された。呉羽山の北側を迂回していた旧線は、『日本図誌体系 中部2』(朝倉書店 2011)掲載の明治34年測量の地図で確認できる。また、『ふるさと富山市』(郷土出版社 2009)や『写真集明治大正昭和富山』(国書刊行会 1978)、『北陸線写真帖』(北國新聞社 2007)等に、旧駅や明治末期の富山駅の写真が掲載されており、当時の様子をうかがうことができる。   

Q 74 テレビドラマ「八重の桜」で<什の掟(じゅうのおきて)>というものが取り上げられたが、この掟の内容を知りたい。
A 74 「八重の桜」は、幕末期に戊辰戦争で活躍した女性、新島八重の生涯をえがいたテレビドラマである。今回は、八重の生まれ育った会津藩(福島県)で行われていた教育に関するレファレンスを紹介する。
はじめに、福島県や歴史に関する事典を調査する。『福島大百科事典』(福島民報社 1980)、『国史大辞典』(吉川弘文館 1986)などを確認する。
会津藩についての概説や、藩校である日新館、白虎隊などの記述はあるが、<什の掟>については書かれていなかった。
次に藩政や藩校に関する資料を調査する。『近世藩制・藩校大事典』(吉川弘文館 2006)、『藩史大事典』(雄山閣出版 1988)などの事典類で<会津藩>についての記述を確認する。会津藩藩主である保科正之が制定した『家訓十五箇条』などの説明はあったが、<什の掟>に関する記述は見つからなかった。その他に一般書を調査すると、会津藩の教育方法について紹介されている文献がいくつか見つかった。
そのうち『藩校・私塾の思想と教育』(日本武道館 2011)では、「三 会津藩の武士教育と会津魂【日新館】」の項目で<什の掟>について紹介されている。
会津藩では、藩校に入学する前の子どもたちが<什(じゅう)>と呼ばれる地域グループをつくり、規律ある生活を送っていた。そこで使われていたのが、<什の掟>と呼ばれる道徳規範である。<什の掟は>7つの条項から構成されており、この掟を什長が読みあげ、それぞれの自己反省を行う時間があった。掟に背いた者には罰則があり、それによって自戒を促したとされる。
<什の掟>の内容は以下のとおりである。
 
一つ、年長者のいうことに背いてはなりませぬ。
二つ、年長者にはお辞儀をせねばなりませぬ。
三つ、虚言をいうことはなりませぬ。
四つ、卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ。
五つ、弱いものをいじめてはなりませぬ。
六つ、戸外で物を食べてはなりませぬ。
七つ、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ。
 
ならぬものはならぬものです。 あわせて、出典として示されていた『人づくり風土記』(農山漁村文化協会 1990)を確認する。7巻に会津藩の地域社会と教育についての記述があり、<什の掟>として、同様の7条項が紹介されていた。
このほかに、会津藩や白虎隊に関する資料を調査すると、上記の掟と同様の心得が多くの資料で紹介されている。そのうち、『会津白虎隊のすべて』(新人物往来社 2002)では、違背者がいた場合の制裁法についての記述がある。制裁には「無念」と呼ばれるお辞儀や、竹箆(しっぺ)などがあり、最も重いものは「派切る」と呼ばれる絶交があり、父兄が付き添い絶交の解除を請わねばならなかったとある。
また、『会津藩校日新館と白虎隊』(新人物往来社 1988)では、違背したかどうかを審議する際に、什長が判断できない場合は、さらに年長者の意見をあおぐ例などが紹介されている。
今回紹介した資料の他にも『会津武士道』(PHP研究所 2007)や、『白虎隊と会津武士道』(平凡社 2002)などから、会津藩の精神や道徳規範についてうかがい知ることができる。 
Q 73 昔、八尾では、正月に自宅の天神様の前で「天神経(てんじんきょう)」というものを唱えたということを聞いたが、どのようなものだったか知りたい。
A 73 図書館には、各地の習俗やならわしに関する質問が多く寄せられる。今回は、富山のお正月に関するレファレンスを紹介する。

はじめに、民俗、宗教、歴史等の事典を調べてみる。『日本民俗大辞典』(吉川弘文館 2000)「天神信仰」の項には、菅原道真の霊をまつる信仰であることやその歴史的背景に加え、「石川・富山を中心に北陸地方でみられる信仰。富山県では天神様は正月神とされている。」との記述がある。『日本の神仏の辞典』(大修館書店 2001)には、「江戸時代には庶民の教育機関の寺子屋を中心に信仰が広まり、「天神経」が読誦された。」と記し「天神経」について若干触れている。また『菅原道真事典』(勉誠出版 2004)を確認したが、「天神経」の記述は見当たらなかった。

次に、郷土資料を調べてみる。『富山大百科事典』(北日本新聞社 1994)では、天神信仰のあらましから北陸での普及経緯を記している。「天神絵像・木像を祀るのは、北陸では富山・石川県が多い。・・・天神習俗(天神経、うそかえ神事、正月の天神様飾り付けなど)の盛んなことが窺える。」とあり、富山県内の「天神経」の存在が確認できた。
『富山県史 民俗編』(富山県 1973)には詳しい記述がなかったため、視点を変え、寺子屋と天神経に関わりがあったことから『富山県史 通史編Ⅳ近世下』「学芸と教育」の章を見てみる。ここでは「寺子屋における天神信仰の表れとして、天神講・席書きや、天満宮・天神堂の建立、天神経の読誦をあげることができる。」「天神講や正月の書初めの折に「天神経」を読誦した例を八尾町にみることができる。」とし、『富山史壇78号』前田英雄氏論文を紹介している。この論文には「50歳以上の人々が学童のころ、どの家でも天神様を飾った祭壇の前で「天神経」をあげそれから書初を書いたという。」と述べ、八尾町冨士原氏が所蔵する「天神経」の経文が記されていた。

さらに、地元八尾の資料を調べてみる。『続八尾町史』(八尾町 1973)付録部分に、「天神経」が記されており、経文とひらがなの読み、解説が記されている。これには『富山県古楽民謡採録採譜事業中間報告その1』(富山県 1972)によるとの注がついていたが、この資料には「天神経」部分は省略されていた。

そこで、この事業を1冊にまとめた『富山県の民謡』(北日本新聞社 1979)を見てみる。この資料は、富山の民謡をはじめ、わらべ唄なども幅広く集め、県下の伝承歌を確認するのには大変役立つ基本図書である。ここでは、明治27年生まれの方から採録した「天神経」が記録されており、楽譜も付けられていた。解説には「正月二日には、子供たちが朝早く起きて、天神の前で書初をして、字の上達を祝う。これを「トシトク」と言い、その際に家族みんなが集まって、八尾独特の「天神経」を読む。これは経文であり、子供たちに意味がわかるはずもないが、祖先からずっと暗唱で伝えられてきているものだ。」とあった。  このほかに、青柳正美著『学芸の神 菅原道真 天神信仰と富山』(北日本新聞社1986)には、「天神経」の本文をはじめ、八尾に伝わる経文も記録されていた。また、八尾町出身の成瀬昌示著『越中八尾細杷』(言叢社 1993)には、自身の体験を交えた「天神経」の解説が記され、興味深く読むことができる。

Q 72 結婚式の三々九度の際に用いられる酒器に、紙で折ったオスとメスの蝶がついている。「雄蝶雌蝶」というらしいが、その折方を知りたい。
A 72 まず、辞典類で「雄蝶雌蝶」について調べてみる。
『日本大百科全書』(小学館)には、「結婚式の杯事(さかずきごと)のときに使う銚子や提子につける、折り紙の雌雄の蝶のこと。通例は金銀や紅白の紙を蝶の形に折り、そこに金銀の水引で蝶の触覚をつけて用いる。婚礼の式場が普通の家に設けられる場合は、両親のそろった男女の子供が選ばれて、そこで新夫婦の杯に同時に双方から酒をつぐ。このため雄蝶雌蝶の名称はもとの意味から転じて、この二人の男女の子供をさしていう場合もある」とあった。

次に、実際の折り方が掲載されている資料がないか探してみる。婚礼に使われるものということから、「冠婚葬祭」に区分される資料を書架で調査する。『日本の折形』(誠文堂新光社 2009)や、『暮らしに使える「折形」の本』(PHP研究所 2007)には、雄蝶雌蝶が銚子や提子に水引で結ばれている写真が掲載されていた。また、銚子には雄蝶を、提子には雌蝶を使うことも礼法の決まりであることも解説されている。
『日本の折形』には、「折形とは日本で古来より行われていた礼法の一種」で、「贈るものを和紙で包むその方法や、儀式などに用いられる飾りの紙を折る方法の総称」とある。例えば、現在では慶事に金品を包む際、市販の祝儀袋を用いることが多いが、元々は折形によって和紙で品物を包んでいたことに由来する。

上記の二冊にはいずれも、古くは鎌倉時代にさかのぼる折形の歴史や、現代の生活で役立つ「祝い包み」や「かいしき」などの折り方や図版が種類豊富に掲載されていた。

次に、この「折形」をキーワードに当館で所蔵する資料を調査する。『折形の礼法』(大和書房 1978)には、2種類の雄蝶雌蝶の折り方が掲載されていた。

他にも、『四季をよそおう折形』(淡交社 2004)、『折形レッスン』(文化出版局 2005)、『半紙で折る折形歳時記』(平凡社 2004)などがあったが、雄蝶雌蝶の折り方は掲載されていなかった。

そのほか、『包結図説』(国書刊行会 1987)には、雄蝶雌蝶の銚子、提子への取り付け方が解説されていた。『包結図説』は、江戸時代中期の故実家、伊勢貞丈が記した書物を現代語版として復刻した資料である。
伊勢貞丈は、多くの礼法関係の著書を残しており、その一つに武家礼法の書『貞丈雑記』がある。そこでは、祝いの席の酒器に蝶の折形を飾り付ける理由として、「酒のむ人は蝶の花の露を吸いて遊びたのしむ如くせよ、という教えの為に、蝶の折形を付くるなり。瓶子に蝶花形付くるも同じ心なり」と記されている。(『日本の折形』参照)

また、婚礼儀式やそれに関する礼法についての資料についても調査すると、『やさしさが伝わる日本の礼法』(玉川大学出版部 2008)と、『図解小笠原流礼法入門 立ち居振舞い』(中央文芸社 1981)に、長柄・堤飾りと瓶子飾りの雄蝶雌蝶の一例が図示されていたが、折り方については掲載されていなかった。

なお、これらの資料では三々九度(式三献)に使う折形の蝶は、蚕の象徴で蛾を表し、「雄蝶、雌蝶が結ばれ、やがて繭が作られ、その繭から絹が生まれるという生産と生命の維持を意味し、種族繁栄という新家庭を象徴するもの」としている。

折形は、明治以降も、師範学校や高等女学校で教授されたり、教科書でも紹介されるなどして継承されてきたが、戦中戦後にかけ、そのような教育の機会もなくなっていったようである。

Q 71 神社で行われる「うそかえ」という行事について知りたい。富山県では、どのように行われているのか。また、その行事の中で「かえもの」というものが神社より配布されるらしいが、どのようなものなのか。
A 71 神社で執り行われる神事のひとつ「うそかえ」。 『日本国語大辞典』(小学館 2001)の「うそかえ」の項目を見ると「うそ」には、鳥の「鷽(うそ)」の字が当てられ「鷽替」と書く。鷽替の神事、鷽替祭とも呼ばれ、「福岡県大宰府、および東京都江東区亀戸天満宮などで参詣人が木製の鷽を替え合う神事。昨年の凶をうそにして今年の吉に取り替える意という。」とある。鷽は、天神の御使鳥とされ、「鷽」が「嘘」に通じていることや日本各地でこの神事が定着していることがわかった。
同辞典で「かえもの」を引くと、「換物神事」の項目があり、この神事で取り替える品々を指す。
次に日本全国の年中行事を網羅した『年中行事大辞典』(吉川弘文館 2009)を見ると「大宰府天満宮鷽替神事」の項目があった。これによると、鷽替は正月七日の夜に行われ、参詣人が暗闇の中で「替えましょ、替えましょ」と言いながら、木鷽を交換してゆく。この群集の中に神職が密かに黄金の鷽を紛れ込ませ、最後にこれを持っていた者は、一年の幸運を手にすることができたという。しかし、その取り替え事は、時とともに変化し、現在では、参詣者があらかじめ番号の付いた木鷽を買い求め、後に当選番号が発表されることがわかった。また、この資料では、鷽をかたどった木製の「かえもの」の写真を見ることができた。
それでは富山県内では、どのように換物神事が行われているのか、郷土資料より民俗・風習関連の資料を調べていく。
富山の伝承行事や習俗の論考をまとめた『とやま民俗文化誌』(シー・エーピー 1998)には、「富山の天神さま」として親しまれている富山市於保多町にある於保多神社の「ウソカエ神事」の記述があった。県内で行われる鷽替で最も有名なのは於保多神社であり、5月25日に行われる。「かえもの」の鷽は、木製ではなく土人形で、かつては、大宰府天満宮と同じく参詣者同士が鷽を交換していたが、現在は、参詣者が番号付きの鷽を手にし、後に発表される当たり番号の鷽を持つ者は、神社より賞品がもらえるとある。
『ふるさとの風と心 富山の習俗』(桂書房 1986)には、於保多神社で当たり番号の鷽を手にし、喜んでいる家族のほほえましい写真が掲載されており、当時の賑やかな神事の様子をうかがう事ができる。また、取材メモとして、鹿島神社の「シカ替え」、諏訪神社の「亀替え」、千歳神社の「鶏替え」、などがあったが、戦後すたれ、現在では於保多神社と諏訪神社が現存するとあった。『とやまの年中行事』(富山県教育委員会 2008)では、於保多神社の鷽替と諏訪神社の亀替の簡単な解説とともに、素朴な土人形のかえものの写真を見ることができる。
宗教関連の本では、『富山の寺社』(巧弦出版1978)、『とやま癒しのパワースポット』(北日本新聞社 2012)に於保多神社の歴史と鷽替神事についての記述があった。
また、富山のかえものは土人形であることから、 郷土玩具の資料を調べると『全国郷土玩具ガイド 1』(オクターブ 2004)には、鷽や亀のほか、戎(えびす)神社の鯛など、かつて県内で使用されていた約20種のかえもののカラー写真があった。
於保多神社に問い合わせたところ、近年、鷽替は行っておらず、また具体的な開催予定もないそうだ。いつかこの伝統的な祭礼を復活させることができたらということだった。
Q 70 「四十物」とは、郷土料理に関した言葉だと思うのだが、その意味を知りたい。
A 70 「四十物」という言葉から、富山市の町名「四十物町(あいもんちょう)」を思い出す方もいるかもしれない。今回は、言葉の意味と併せて地名の由来も探ってみることにした。
まずは、8,000語を超える語彙を収録した富山県の方言集『日本のまんなか富山弁』(北日本新聞社 2001)をみると、四十物とは「①塩魚・乾魚など、塩で処理した海産物の総称。塩合物。②鮮魚、塩乾物すべての魚。藩政時代、富山城下にあった魚市場周辺の魚屋街を四十物町と呼んだ。」とある。「四十物」とは、料理名ではなく、食品の名前のようだ。
次に日本料理に関わる調理用語や食材、歳時などの用語を収めた『語源・由来日本料理大事典』(ニチブン 2000)をみると、「あいもの」に「相物・間物・合物」の字が当てられているが、その意味は先にあげたものと同じように「①魚の塩漬けにしたものの総称。②鮮魚と干物の中間の状態にある魚のこと。」とあり、その由来は、「①塩を加え合わせる、調合する。②2つの状態にある魚のこと。」とある。
そのほか言葉の辞典を調べてみることにする。『日本国語大辞典』(小学館 1972)では「相物・間物」の字が当てられ、語意は同じく魚の加工品を指し、語源は「①アキナヒモノ(商物)の略か。②生物と乾物との間の物の意か。」とある。
使用地域として「①乾物、塩物類」は新潟県、岡山県、徳島県。「②鮮魚、干魚、塩魚などすべての魚の類をいう。」は長崎県対馬と記載されている。文献として「~あひ物とて、乾きたる魚の入りたる俵を取積で」(太平記・七)を引いており、鎌倉時代からの言葉であることがわかった。
『岩波古語辞典』(岩波書店 1974)には、「あひもの」に「合物・相物・四十物」の字が当てられ、語意は「塩で処理した海産物の総称。」とし「干魚を売り候ふ物をあひものと申し候。あひものとは、商ひ物と云う事かと存じ候」(康(やす)富記(とみき)・文安6年)を引いている。
これらのことから、意味は海産物またはその加工品であり、語源は①魚に塩を加え合わせる②鮮魚と干魚の間の状態③あきないものの3つの説があるようだ。この語源から「合物」「間物」という漢字が当てられていることは理解できるが、では「四十物」という当字はどこからきたのかという疑問が残る。      
『富山県の地名』(平凡社 1994)に、その答えとなる記述があった。「西四十物」の項に、「アイモノとは塩魚の総称で、鮮魚と干魚との中間程度の意。これに相物の当字が用いられ、さらに相字を文字遊戯で目木と書き、判じ物(ある意味をそれとなく文字や絵などにして表わし、人に判じ当てさせるようにしたもの)的に四十と表記し、塩魚の種類の多い意をかけあわせたものだろう。」
最後に『おらっちゃらっちゃの富山弁』(北日本新聞 1992)にも、「あいもの」の意味や語源、四十物町について2頁ほどにまとめてあるので紹介しておく。
魚屋の町「四十物町」は、その昔、東西に分かれ交代で魚市を開き、賑やかだったそうだ。しかし、天保2年の大火ののち、魚問屋は弐番町(現在の西町)へ移転したという。西四十物の町名は現在もあるが、東四十物町は中央通りとなっている。
Q 69 同じ漢字を繰り返す時に使う【々】という字の読み方を知りたい。
A 69  「日々」や「人々」など、普段よく見聞きする「々」という文字だが、この文字そのものの読み方はあるのだろうか。
まずは、『大漢和辞典』(諸橋 轍次/著 大修館書店 2001)で調査する。『大漢和辞典』は親文字5万余字、熟語53万余語を収録した世界最大の漢和辞典で、全15巻にわたっている。
『大漢和辞典』には『索引巻』があり、字音索引(音読み)、字訓索引(訓読み)、総画索引などの索引が収録されている。今回の「々」は、読み方がわからないため、総画索引で調べると、第1巻に項目があり、「同一文字疊用の記號」であると記されていた。
また、別の漢和辞典を調べると、『新大字典』(講談社 1993)では、『大漢和辞典』と同じく「同一文字畳用の記号」、『角川大字源』(角川書店 1992)では、「同一文字を繰り返す符合」とある。
そこで、記号であるという記述を手がかりにして、『句読点、記号・符号活用辞典。』(小学館 2007)を調べてみる。この辞典は、普段の生活でよく目にする記号や符号を「くぎり符号」や「つなぎ符号」など13章に分けて解説してある。「々」は「くり返し符号」の一つと見当をつけてみると、項目があった。
ここでは、「々」の代表的な名称は、「同の字点(どうのじてん)」であり、「きまった音をもたないことから、漢字でなく符号として扱われる。符号なので漢和辞典に載っていないこともある」とある。また、ほかの名称として「漢字返し」、「漢字送り」、「ノマ点(のまてん)」などがあり、パソコン入力の際には、「どう」や「おなじ」から変換できることも紹介されていた。
「々」の名称がわかったことから、次に『日本国語大辞典』(小学館 2001)で「同の字点(どうのじてん)」を調べてみる。ここでは、「踊り字の一つ。漢字一字の繰り返しを表すもの」と記されていた。
同じく、「ノマ点」についても調べると、「のま【々】」として項目があり、「(『々』がかたかなの『ノ』と『マ』を組み合わせたように見えるところからの通称。『ノマ』とかたかなで表記する。)同じ漢字が繰り返されるとき、第二字に代えて用いる記号で、読みは第一字に従う。漢字の『繰り返し記号』で、重字、畳字ともいい、かたかなの『ヽ』、ひらがなの『ゝ』とともに『おどり字』の一種。」と解説があった。
そのほか、複数の辞書、辞典を中心にした情報源から一括して検索できるデータベース「ジャパンナレッジ プラス」を使って、「々」について検索してみると、先の『日本国語大辞典』の項目や、デジタル『大辞泉』(小学館)での項目(解説はほぼ同じ)があがってきた。
これらから、「々」は、そのものの読み方はなく、「同の字点(どうのじてん)」や「ノマ点(のまてん)」という名称があることを回答した。
Q 68 岐阜県にある荘川桜と呼ばれる2本の桜の木は、もとは白川郷の照蓮寺と光輪寺の境内にあったもので、御母衣ダム建設時に移植されたと聞いた。照蓮寺や光輪寺も移築されたのか。
A 68  まず、古代から現代までの古刹を調べることができる参考図書『日本名刹大事典』(雄山閣出版 1992)を見ると、高山市には照蓮寺が2カ寺ある。高山市鉄砲町にある通称「高山別院」と呼ばれている光耀山照蓮寺は、もと白川郷中野にあったが、天正16年(1588年)に現在の地に移された。光耀山照蓮寺が移転した後、中野には本堂が残され、長らく「心行坊」と呼ばれ存続した。しかし、昭和27年(1952年)に御母衣ダム建設計画が起こったことから、昭和36年(1961年)に高山市堀端町の高山城跡に移築され、通称「城山照蓮寺」と呼ばれているとあった。
このことから、後者の「城山照蓮寺」が利用者の探していた寺であることがわかった。照蓮寺については、参考図書では『岐阜県百科事典 上巻』(岐阜日日新聞社 1968)、『郷土資料事典 21巻 岐阜県』(人文社 1997)、また、一般図書では史跡や文化財を訪ね歩く時に役立つガイドブック『岐阜県の歴史散歩』(山川出版社 2006)に記述があった。その他に、『高山市史 下巻(復刻版)』(高山市 1981)には、白川地方への宗教の伝播や飛騨文化との関わりとともに詳しく記されていた。
続けて、光輪寺を調べるが、先の『日本名刹大事典』や『全国寺院名鑑 中部篇』(全日本仏教会寺院名鑑刊行会 1970)の寺院の事典には項目がない。
そこで、御母衣ダムの関連の資料を調査し、『御母衣ダムと荘白川地方の50年』(まつお出版 2011)を見る。この本は、御母衣ダム建設から今日に至るまでの荘川村、白川村が辿った道のりをまとめたもので、桜の木の移植や後の管理などの記述はあるが、光輪寺の移築については見つからない。
荘川桜についてインターネットで検索すると、御母衣ダムを管理する電源開発株式会社が運営するホームページ「荘川桜 -受け継がれていく人々の思い-」(http://www.sakura.jpower.co.jp/)があり、詳しく紹介されていた。このサイトでは、樹齢450年余にも及ぶ桜の木の大移植の物語を読むことができた。その中で光輪寺について湖底に沈むと表現されていることから、光輪寺は移築されなかったものと思われる。
Q 67 南京玉すだれの、様々な形の作り方を知りたい。
A 67  大道芸の一つとして知られている南京玉すだれ。竹ひごを糸でくくり、すだれ状に編みこんで、伸び縮みするように作った玩具で、「しだれ柳」や「橋」など、いろいろな形を見立てることができる。「ァさて、ァさて、さて、さて、さて、さて、さては南京玉すだれ」などの口上とともに、目にしたことのある方も多いのではないだろうか。
まず、『イラスト事典 大道芸大全』(同文書院 1998)を調べてみる。南京玉すだれの源流が、五箇山の民謡「こきりこ」で使われる楽器の「ささら」にあることや、南京玉すだれの口上があったが、形の作り方は掲載されていない。『図説江戸大道芸事典』(柏書房 2008)では、「すだれで見立てるものにはいろいろな名称がついており、丸い輪をつくれば仏像の光勢、満月、細長く伸ばせば釣竿、持ち方を変えれば、橋の欄干などになる」との記述があるが、具体的な形の作り方については載っていない。
さらに手がかりを求めて、国立国会図書館のホームページ(http://www.ndl.go.jp/)から「レファレンス協同データベース」で、「南京玉すだれ」をキーワードに検索してみる。これは、国立国会図書館が全国の公共図書館等と協同で構築しているデータベースで、事業に参加する図書館が、一般の方々の情報探索や、図書館員のレファレンス業務に役立つ情報を、随時登録している。
「南京玉すだれ」に関する事例は3件あったが、いずれも、形のつくり方が掲載されている書籍資料については紹介されていなかった。
さらに、複数の辞書、事典を中心にした情報源から一括して検索できるデータベース「ジャパンナレッジ」で「南京玉すだれ」を検索してみると、「日本南京玉すだれ協会」(http://tamasudare.org/index.html)が紹介されており、協会ホームページへのリンクがあった。
ホームページを見ると、「玉ちゃんすだれちゃんの玉すだれ教室」というコーナーに、「技の紹介」として簡単なイラストで「釣竿」や「万国国旗」といった技が紹介されていた。また、「南京玉すだれの歴史」のコーナーでは、富山県南砺市上梨の白山宮が南京玉すだれの発祥の地として認定されたとして、その際の北日本新聞の記事が掲載されていた。
富山県立図書館ホームページ(http://www.lib.pref.toyama.jp/index.aspx)にある「郷土資料情報総合データベース」で「南京玉すだれ」を検索すると、新聞雑誌記事の項目に、関連する記事の掲載情報が複数挙がっている。日付の新しいものでは、2011年7月3日に「日本南京玉すだれ選手権大会」が南砺市上梨で開催された折の記事の情報があった。
また、関連する資料を調査したところ、最近のものでは、「南京玉すだれ入門」(鳥影社 2009)が出版されていることがわかった。南京玉すだれが富山に縁の深いものであることから、今後の利用が見込まれると考えられ、当館で1部購入した。
資料を確認してみると、「南京玉すだれ 実演」として、「東京タワー」や「桜鯛」などの形が、実際の演者の写真や口上とともに多数掲載されていた。
南京玉すだれで様々な形を作る際には、この資料がわかりやすいようであった。
Q 66 富山で起きた過去の地震や、活断層の分布等についてわかる資料を紹介してほしい。
A 66  2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震の発生から、地震や津波、放射能に関する参考質問が多く寄せられている。その中でも最も多い、地震に関するレファレンスを紹介する。
富山県の古い地震の記録は『富山県気象災異誌』(日本気象協会富山支部 1971)に掲載されている。この資料は過去の文献を元にまとめられ、地震だけではなく、異常気象や火災、疫病、地すべり等、さまざまな災害について、県内の被害状況がわかるようになっている。地震の項目には地震の日時や規模、震源地等が記載されているが、あまり詳細なものではなく、1971年以降の記録を調べることはできない。
近年の地震情報については、『日本の自然災害500~1995年』(日本専門図書出版 1998)と『日本の自然災害1995~2009年』(同、2009)を見ると、全国の大地震の過去の記録や、地震に伴って発生した津波の被害記録、その他いろいろな自然災害について詳しい解説がある。ただし、他の地域を震源地とする地震についての、富山県における被害状況が詳細に記録されているものではない。
インターネットで富山地方気象台のホームページ(http://www.jma-net.go.jp/toyama/)を見ると、最新の地震情報や、富山県における過去の地震の記録を見ることができる。また、このホームページでは県内各地域で観測された震度も公開している。例えば、東北地方太平洋沖地震の際に、富山市では震度3が観測されたことがわかる。そのほか、月ごとに掲載される「富山県の気象・地震概況」には「富山県とその周辺の地震活動」の項目もある。
次に活断層について調べてみる。市内の中央部にある呉羽山断層帯を『1:25,000都市圏活断層(富山)』(日本地図センター 2002)で見ると、断層帯が呉羽山丘陵から神通川を横切り、富山湾岸に延びていることがわかる。この地図ほど詳細ではないが、『日本列島・地震アトラス 活断層』(集英社 1995)では、全国の活断層マップを見ることができる。他にも『いま活断層が危ない』(中日新聞社 2006)には呉羽山断層帯と砺波平野断層帯の特徴や地震発生確率、地震発生間隔等について書かれている。
また、地震に伴って発生する津波についての専門資料が『津波の事典』(朝倉書店 2007)である。過去の津波の記録や、津波発生のメカニズム、予測方法、対策方法等が詳細にまとめられている。
最後に、これらの情報に併せて、地震にどう備えるかということについても考えてみたい。富山市では「富山市地域防災計画」を元に、『富山市防災マップ』を配布している。有事の際の対応や最寄りの避難所の確認、防災グッズの準備等に役立つ資料である。
また、2011年4月20日号の「広報とやま」と合わせて全世帯に配布された『富山市地震防災マップ』には、地震によるゆれやすさマップや、地域の建物危険度マップが掲載されている。マップは、各世帯が居住する地域版のものが配布されているが、その全体は、富山市のホームページでも見ることができる。富山市立図書館本館・参考室にも所蔵している。
万が一、地震が発生した際には、県内の警報・注意報が常時更新されている「富山防災WEB」(http://www.bousai.pref.toyama.jp/web/jsp/index.jsp)が役立つ。緊急時にはテレビやラジオの放送を待つだけではなく、自ら最新の情報を入手する積極性を持ちたいものである。
Q 65 陸軍士官学校の寮歌がどのようなものであったか知りたい。
A 65  寮歌とは、旧制の大学や高等学校などの寄宿寮で生活する学生が、それぞれの寮でうたうために作られた歌である。
まず、富山市立図書館の所蔵資料の中から、「寮歌」をキーワードに資料を調査する。寮歌関係の本は何冊かあるが、質問者は歌詞を知りたいようであったため、『日本寮歌集』(日本寮歌振興会 1991)と、『日本校歌・寮歌集』(新興楽譜出版社 1973)を確認してみる。
『日本寮歌集』には日本全国の旧制高等学校の校歌・寮歌が譜面付きで掲載されており、中には複数の寮歌を持つ学校もあったが、陸軍士官学校については校歌しか載っておらず、寮歌の記述はなかった。
次に「軍歌」をキーワードに資料を探し、『日本軍歌集 決定版』(新興楽譜出版社 1970)と『軍歌と戦時歌謡集』(新興楽譜出版社 1971)を見てみたところ、陸軍士官学校校歌や陸士作の歌、陸軍関係の歌が多数掲載されていたが、寮歌は載っていなかった。
これらの資料にも載っていないということは、陸軍士官学校には寮歌が存在しないのではないかとも考えられるが、もう少し調査を続けてみる。
今度は陸軍士官学校寮歌の存在の有無についても確認できないものかと、「陸軍」をキーワードに資料を探してみる。その中で『陸軍士官学校』(秋元書房 1969)の「軍歌・雄叫集」という項目に、第一高等学校をはじめとする明治30年代の寮歌確立の流れを背景に、陸士予科も毎年新しい歌を作って記念集会で歌う伝統があったことについて書かれていた。その歌の多くは当時の高校寮歌の曲を借り、陸士が詞を乗せたものであったらしい。それらが陸軍の「雄叫」として広まり、珠玉の何篇かが広く陸軍全体の中に浸透して愛唱歌、軍歌となっていったとのことであった。
これらの記述によると、陸軍士官学校においては、寮歌として定められている歌はないものの、陸士作の「雄叫」が寮歌に近いものだと考えられる。
また、インターネットで「陸軍士官学校」、「寮歌」をキーワードに情報を探すと、「日本寮歌祭」という言葉が出てきた。日本寮歌祭の公式サイトはなかったが、寮歌祭参加者が更新している多数の個人のサイトと、寮歌祭の実況DVD『第五十回日本寮歌祭 国を憶うて寮歌を謳う DVD完全収録版』(コアラブックス 2010)の販売情報から、日本寮歌祭には旧制高等学校卒業生の他に陸軍士官学校卒業生も参加していることや、日本寮歌祭が2010年の第50回をもって終了したという情報が得られた。
当館では『日本寮歌祭四十年史』(国書刊行会 2000)を所蔵していたので、内容を確認してみたところ、陸軍士官学校のページに「寮歌祭であるから、校歌でなく我々の寮歌にあたる『雄叫編』を歌おうという声も陸士内に強くあった」と書かれていた。
寮歌祭で陸軍士官学校卒業生が歌っているのは校歌であるようで、その裏話として、「雄叫」が曲の多くを高校の寮歌から拝借しているため、本家の高校の前で歌うには気恥ずかしく感じる、というものもあった。
以上の調査結果から、陸軍士官学校校歌と雄叫のいくつかが譜面付きで載っている『陸軍士官学校』を質問者に見てもらった。
Q 64 公共トイレを改善するための、全国各地および富山県内での取り組み事例や、公共トイレの利用者アンケートが掲載された資料はあるか。
A 64  当館の蔵書を、本の内容を表す件名(この場合は「便所」)で検索したところ、以下のような資料があった。公共トイレの改善と、それにともなうイメージの変化が注目されていることがうかがわれる。
『まちづくりにはトイレが大事』(北斗出版 1996)によると、日本では80年代半ばから「トイレブーム」が起こり、公共トイレも“4K”(汚い、暗い、臭い、恐い)のイメージを払拭するべく「トイレ革命」が進行してきたということだ。トイレ改善の流れや課題などがわかりやすくまとめられた本である。
『公共トイレ管理者白書―もう公衆便所なんて呼ばせない』(オーム社 2005)は、静岡県伊東市の「観光トイレ」、東京都町田市の「バリアフリートイレ」など、各地の特色あるトイレ作りの事例を紹介している。また資料編の「公共トイレ年表」には、1988年に富山県が「快適な公共トイレ整備事業」に着手したことも記載されていた。
『心に響く空間―深呼吸するトイレ―』(弘文堂 2009)では、商業施設、学校、駅などのトイレが、多数のカラー写真とともに紹介されている。県内からも、滑川市立西部小学校とマリエとやまのトイレが掲載されていた。また、「トイレだけの目的で来店したことがありますか?」といった利用者アンケートの結果が、随所に盛り込まれている。
「トイレ アンケート」などのキーワードで、インターネットから関連情報を検索すると、第一生命経済研究所が2004年に実施した「公共トイレに関するアンケート調査~利用者からみた公共トイレの管理と利用のあり方~」が公開されていた。これは同研究所の調査報告書「ライフデザインレポート」2005年5月号・11月号をもとにしたもので、どちらもホームページ(http://group.dai-ichi-life.co.jp/dlri/ldi)から全文を閲覧できる。
また、トイレ環境の改善や整備に取り組む日本トイレ研究所のホームページ(http://www.toilet.or.jp/)では、地方自治体との共催で行っている「全国トイレシンポジウム」の資料集などの出版物を紹介している。
次に、富山県での取り組みについて知るため、県庁のホームページ内を「公共トイレ」というキーワードで検索をしたところ、「「誰もが住みたい県、そして訪れたい県に」~「富山県快適トイレ推進プラン」を推進する!」という記事があった。県の政策情報誌「でるくい」22号(2005)に掲載されたもので、1988年に始まった県の公共トイレ改善事業について、環境政策課の職員が解説している。グッドトイレコンテストなどとともに、この記事でも紹介されているのが、県と環日本海トイレフォーラムが協働で作成した「富山県トイレマップ」(http://www.toyama-toiletforum.jp/)である。ウェブ上で公開されており、県内の主な公共トイレを検索できるユニークなものだ。
さらに、富山県立図書館の蔵書を検索すると、『公共トイレに関するアンケート実態調査結果』(富山県 1988)、『望ましい公共トイレのあり方』(富山県快適な公共トイレ研究会 1989)など、県のトイレ行政に関わる資料を所蔵していた。また、より新しい情報については、県環境政策課や環日本海トイレフォーラムなどへの問い合わせを質問者におすすめした。
Q 63 昔のあめ細工の屋台の様子、棒の先についているあめ細工がわかる写真か絵を見たい。
A 63  鶴、猫、鳥などお客の注文に応じ、その場でどんな形にでも作ってくれる、縁日大道芸の花形、飴細工。富山県内のお祭りの露店においてもよく見かけるようになった。
参考図書『日本大百科全書』(小学館 1984)、『定本江戸商売図録』(立風書房 1986)、『復元江戸生活図鑑』(柏書房1995)、『時代小説職業事典』(学研教育出版 2009)などによると、行商の飴売りの一つとして飴細工売りがある。「飴細工」は、溶かした飴を葦茎の先につけ、息を吹き込んで膨らまし、いろいろな形に作って青や紅で彩色したものである。飴は古くは「日本書紀」にも出てくるが大変高価なものであったこと、江戸時代になって庶民のものになり、唐人風の扮装をして行商する「飴売り」が流行したこと、「飴細工売り」は行商だけでなく、子どもたちを相手に子店を構えるようになったことなどがわかった。作り上げた飴細工を立てた屋台や職人の図が掲載されてはいるが、より鮮明なものがないか一般書の書架を調べてみる。
「露店」「縁日」「香具師」をキーワードに蔵書検索を行い、書架をまわって目星をつけた本を一つ一つ手に取り調査した。『近代庶民生活誌』(三一書房 1994)は近代日本の庶民生活や文化についての文献を集め、体系化した専門書である。その「17巻見世物・縁日」にも露店の記述はあるが、あめ細工に関する絵や写真は見つからない。『明治物売図聚』(立風書房 1991)では「飴」の項目に前述と同様の飴細工屋の図がある。『夜店』(現代史出版会 1984)は露店の仕組みから口上まで書いてある本であり、「昔なつかしアメ細工」として飴細工を作っている写真が紹介してある。利用者が求めているのは、屋台の前で細工している風景ということなので、もっと写真が多く収録してある図書を探してみた。
『懐かしの縁日大図鑑』(河出書房新社 2003)は、写真をたくさん用いて見開きに一つの露店を紹介している。「あめ細工」には飴細工を作る手順とうさぎや鳥など細工作品の写真があった。飴細工の歴史は200年にも及び、昭和初期頃までは、飴を葦の先につけていたが、現在では割りばしと専用のハサミを使って形を整えているとある。
また、『縁日お散歩図鑑』(廣済堂出版 2002)では、縁日の歩き方や様々な屋台がフリーハンドの白黒イラストで描かれている。「あめ細工」では、屋台の全景や内側にある道具類、飴細工師の作っている様子、最初の丸めたあめの状態や完成したうさぎやうまなどの作品を細部まで丁寧にコメントつきで紹介してある。写真ではなかったが、利用者にとってはこの本が求めているものに近かったようである。
その他に、明治の横浜の写真を集めた『明治の日本』(有隣堂 1990)の中に「吹き飴売り」として飴を吹いている職人と屋台、見つめる子どもたちの写真がある。また、インターネット検索では、現代の飴細工師による個人のページがあり、伝統の継承とウェブ上での実演という試みも見ることができる。
Q 62 日本人が年間に旅行する回数や、各観光地ごとの客数を調べたい。あわせて、他に観光や余暇、レジャーに関する統計データにどのようなものがあるか知りたい。
A 62  統計情報についての資料情報を調べるには、『統計情報インデックス』(日本統計協会)が有効である。この資料でテーマとなるキーワードから統計書を探すことができる。「観光」「余暇」「レジャー」というキーワードから、当館で閲覧できる資料には次のものがあった。
『観光の実態と志向』(日本観光協会)には、日本観光協会実施の「国民の観光に関する動向調査」の結果に基づいた、旅行参加率や施設の利用実態など各種の実数がまとめられている。『全国観光動向』(日本観光協会)には、各都道府県が発表した観光地入込客統計がまとめられていて、地域ごとの状況を知ることができる。『余暇・レジャー&刊行統計年報』(三冬社)では、「余暇」「スポーツ」「観光」「娯楽」など複数の分野にわたる統計数値が集められていて、日本人の志向がわかるようになっている。例として「観光」の分野では「年末年始の人出」や「宿泊予約の方法」、「海外旅行先別満足度」など、分散しがちな数値が収められている。
(国土交通省観光庁)や『レジャー白書』(日本生産性本部)には各種統計データを元にした観光の状況分析や施策がまとめられている。また、観光庁ホームページ内「統計情報」にもいろいろなデータが掲載されている。(http://www.mlit.go.jp/kankocho/)
Q 61 昭和10年前後に永田鉄山という人が殺害された事件の新聞記事が見たい。
A 61  昭和10年8月12日、陸軍軍務局長の永田鉄山少将が相沢三郎中佐に殺害された。相沢事件と呼ばれるもので、翌年の二・二六事件の伏線となった。
「昭和ニュース事典」第五巻(毎日コミュニケーションズ、1992)には、事件の記事や写真がいくつか掲載されている。また、当館では昭和10年の新聞縮刷版は所蔵していないが、新聞社のデータベースを利用することができる。朝日新聞社「聞蔵Ⅱビジュアル」と、読売新聞社「ヨミダス歴史館」では、明治の創刊時から現在までの新聞記事の検索・閲覧ができる。「ヨミダス歴史館」で、「相沢事件」をキーワードに昭和10年8月12日~13日の記事を検索すると、18件がヒットした。当日の号外、一面で事件を大きく報じた夕刊、翌日の逝去の記事などを、当時の紙面そのままに見ることができる。
あまり大きな出来事でない場合は特に、年月日がわからないと縮刷版から記事を探し出すのは大変である。その点データベースでは、年月日の範囲を広げての検索や、複数のキーワードを組み合わせての検索もできるため、手がかりが少ない場合にも便利である。
Q 60 岩瀬で活躍した犬島宗左衛門とはどういう人物か知りたい。
A 60  犬島宗左衛門は明治22年、東岩瀬町に生まれた。かつて北前船の交易で繁栄した東岩瀬港は、鉄道の普及や神通川の馳越工事により近代海運業として遅れを取っていた。宗左衛門はこの状況を憂い、新聞「日本海之岩瀬」を創刊し、当局を批判した。その様子は「越中人譚 第62号」(チューリップテレビ2003)に紹介されている。
また富岩鉄道や富岩運河の建設を含む、当時の東岩瀬港復活運動での尽力が「実録越中魂」(北日本新聞社2006)「バイ船研究 第3集 第6集」(岩瀬バイ船研究会1991、2002)に掲載されている。
Q 59 岩瀬曳山車祭について知りたい。
A 59  岩瀬曳山車祭は、毎年5月17日、18日に行われる岩瀬諏訪神社の春季例大祭である。曳山車は、お囃子や木遣り唄とともに曳き回され、夜には各町内が激しくぶつかり合う荒々しい曳き合いが繰り広げられる。毎年趣向を変え工夫がこらされた「たてもん」も、見所である。岩瀬地区では老いも若きも一年で最も心待ちにしている行事で、その起源は万治二年(1659年)といわれている。
瀬曳山車祭に関する本には、「岩瀬の曳山」(富山大学人文学部1991)「岩瀬曳山車祭」(岩瀬曳山車祭調査会1992)などがある。
Q 58 『剣岳・点の記』の映画に登場した山の案内人宇治長次郎について知りたい。
A 58  宇治長次郎は明治4年、大山村和田(現富山市)に生まれた。2009年に出版された「山案内人長次郎」(桂書房 2009)は、今までまとまった評伝のなかった長次郎について、その生涯と山案内にまつわる逸話が収められている。同著では、長次郎が人並みはずれた身体能力を持ち、人柄は温和で、優れた山案内人であったと紹介されている。
また、「大山の歴史」(大山町 1990)には、「日本山岳風土記」所収の田辺重治の随筆「長次郎とその頃を語る」が収録されており、田辺からみた長次郎の人柄をうかがい知ることができる。
Q 57 「越中七金山」と呼ばれた亀谷銀山について知りたい。
A 57  亀谷銀山は、大山地区亀谷にあった銀山である。天正6年(1578)に初めて銀山が発見されて以来、江戸末期まで「亀谷かね山」としてその名が知れわたっていたことが「大山の歴史」(大山町 1990)にとりあげられている。
また、「大山町史」(大山町1964)、「ふるさと再発見5」(大山 2002)には、銀山の最盛期は慶長元年(1596)から元和4年(1618)頃までの20年余りで、多くの山師が活躍し、有数の鉱山街となったことが紹介されている。 正保年間(1644~1646)には銀の産出が少なくなり、その後は静かな農村となった。
Q 56 婦中町音川地区にある猫坂峠について場所や言い伝えなどを知りたい。
A 56  『富山県大百科事典』(富山新聞社 1976)によると、この峠は婦中町の高塚、平等、吉谷からの山道が一致する標高130mの所にあり、関所があった地である。猫坂とは平等と池田の猫がこの峠であいびきをしたという言い伝えから名付けられたそうだ。
また、『婦中町史 通史編』(1996)の[町と村の生活]の章にも同様の記述があり、『北陸の峠』(チューエツ 1999)には“加賀藩と富山藩の境であった峠”として、歴史についてわかりやすくまとめてあり、峠への交通も簡単な地図とともに紹介してある。
Q 55 「長沢防空監視哨」はどこに置かれていたか知りたい。
A 55  『富山県史 通史編 6 近代 下』の[不況と戦争の中の県民生活]の章に“防空監視体制”の項目があり、富山と高岡の監視隊本部と26の監視哨により防空監視が行われたことが詳しく記載されていたが、場所についての記述はなかった。『富山県消防沿革史』(1955)には監視哨配置一覧表があったが、長沢の監視哨は出ていなかった。
『婦中町史』(1967)の[町の保安]の章には“長沢防空監視哨”について記述があり、哨所の位置として婦負郡古里村長沢各願寺境内と記されていた。
Q 54 笹津-南富山間を結んでいた私鉄笹津線が廃線になった経緯を知りたい。
A 54  『富山大百科事典』(北日本新聞社1994)の【笹津線廃線反対運動】の項目に大まかな経緯が記されていた。笹津線の運行会社富山地方鉄道が、1971年赤字経営を理由に廃線案を提示、沿線の住民・議会などが反対運動を起こしたものの、1975年やむなく廃線になったということである。詳しい事情は『大沢野町史』(2005)が【現代編・社会】の章に記している。
また『富山廃線紀行』(草卓人・2005)に、1914年富山軽便鉄道として営業開始以来、笹津線がたどった60年余の歴史がわかりやすくまとめられている。
Q 53 大沢野船峅地区にある姉倉姫神社の由緒や、姉倉姫の伝説を知りたい。
A 53  『富山県の地名』(日本歴史地名大系16平凡社 1994)は地名事典だが、歴史的建造物や遺構も項目に含め、参照文献を豊富に挙げているのが特徴である。【姉倉姫神社】の項目を引くと、「創建は嵯峨天皇の勧請、宮数五社など…」とあり、数点の文献が紹介されている。
その中の一つ『肯構泉達録』は、富山の歴史・伝説・地誌を記し、文化12年(1815)ごろ成立した書物で、「姉倉姫が能登の石動彦と争って大乱となったため、罰せられ、呉羽の小竹野で機織をして罪を償った」という伝説を巻頭に収めている。
Q 52 盆行事の「お精霊(しょうらい)」とは、どのようなものなのか知りたい。
A 52  「お精霊」は、先祖の霊を呼び寄せる意味の火祭りである。『富山民俗の位相』(桂書房 2002)や『とやまの年中行事』(富山県教育委員会 2008)を調べると、富山県中央部を中心に、8月13日に行われていることがわかった。川べりで「お精霊 お精霊」と叫びながら火のついた松明を回したり、川原にやぐらを組んで大火をたくなど、地域によってさまざまな違いがあった。
他に『習俗 富山歳時記』(巧玄出版 1973)や、『富山の祭と行事』(巧玄出版 1974)に掲載されている写真や図版も参考になる。
Q 51 富山県内の獅子頭の写真が多く掲載されている資料を見たい。
A 51  富山県は獅子舞の盛んな地域である。『富山県の獅子舞』(富山県教育委員会 1979)や、『とやまの獅子舞』(富山県教育委員会2006)では、県内の各地域の獅子舞について、豊富な写真と共に解説されていた。
また、地域ごとに特化した資料として、『新湊の獅子舞』(荒木菊男 1995)や、『氷見の獅子舞』(小境卓治 2000)といったものもあり、その中でも『氷見の獅子頭展』(氷見市 1986)には、多数の獅子頭の写真が掲載されていた。
Q 50 富山市四方にあるという「栂野(とがの)神社」に行ってみたいので詳しい場所を知りたい。
A 50  まず「富山県神社誌」(富山県神社庁 1973)を見てみたが、栂野神社という神社はなかった。
 「富山県大百科事典」(富山新聞社 1976)や「富山県神社誌」(富山県神社庁 1983)、「四方郷土史話」(布目久三 1982)などを調べると、四方町の町年寄だった栂野彦八が、都賀比古社(栂彦神社)にまつられたこと、その神社はのちに合祀され、四方神社と改称したことがわかった。
 質問者の方には、お探しの栂野神社とは四方神社のことではないかとお伝えし、場所をご案内した。
Q 49 神社建設のための寄付を募る趣意書の文例を見たい。
A 49  書式・文例集などには、趣意書の例は見つからなかった。
 神社関係の郷土資料にあたってみたところ、「西二俣日枝社再建記念誌」(西二俣日枝社再建建設委員会 2003)や、「野々上神明宮御造営記念誌」(野々上神明宮建設委員会 2006)に、実際に出された趣意書が掲載されていた。
 「野々上神明宮御造営記念誌」には、趣意書のほかにも、会報や竣工慶賀祭次第などが資料として収録されており、参考になった。
Q 48 震災が起きたときに富山県に液状化現象の危険があるか知りたい。
A 48  液状化現象とは、地震など強い振動を受けた砂質の地盤が液体のようになる現象のことで、建物が傾いたり、横倒しになってしまったりすることもあるそうだ。
 富山市では「富山市地域防災計画」のパンフレットを作成しており、そこには震災時の県全域液状化予想分布図が掲載されている。これは富山市のホームページからも見ることができる。
Q 47 災害時に明かりの代用をできるものにどのようなものがあるか。
A 47  参考図書室所蔵の「地震災害の事典」に参考となる記述はなかった。
 「体験版わが家の防災」(駒草出版 2005)には、見たこともないような防災グッズの紹介や使用感が書かれていて参考になるが、非常用として事前に準備しておく際におすすめの明かりの紹介があるだけであった。
 「新冒険手帳」(主婦と生活社 2006)には空き缶とサラダ油を使用したランタンの作り方の他、サバイバルに役立つ情報がたくさん書かれている。この本では、ほんのちょっとした知識が万が一の際に役立つことを実感させられる。
Q 46 現在の県展は昭和21年から開催されているが、戦前に県展の前身となる展覧会や組織があったのか調べたい。
A 46  『富山大百科事典』(北日本新聞社 1994)によると「県展」は1946年(昭和21年)に創設された本県最大規模の公募美術展。正式名称は富山県美術展覧会。富山県展は国内でも創設時期の最も早いものに属することがわかった。ただし、前身となる展覧会・組織についての記載事項はなかった。「美術展」の項目をみると、「1941年(昭和16年)に本県における最初の総合美術展ともいうべき富山文化協会綜合美術展が開かれている」という記述がある。
 『県展の草創期に活躍した作家たち』(1995 県展50回記念展実行委員会)は「県展関連年表」として1941年(昭和16年)から1960年(昭和35年)までの県内の美術界の動きが年表でわかるようになっている。また収録されている久泉迪雄「県展、その創設前後のことども」では、大戦前後の活動の様子がうかがえる。富山県民会館美術館学芸員稲塚展子は同書のなかで県展の前身ともいえる展覧会として、富山文化協会綜合美術展をあげている。この資料には 県展開催状況一覧表と受賞者一覧が昭和21年の第1回から平成7年第50回まで記載されている。
 『昭和のアルバム 富山の文化往来』(1989 富山新聞社)の久泉共三によれば、第1回県展をおこなう中心となった人物は、疎開してきて富山にとどまっていた人たちと県内在住の作家たちであるそうだ。県商工課の協力もあり、第1回県展を開催できたとしている。  
 これらの資料から見ていくと、直接的に前身となった組織があったわけではないが、県内にある美術に関する深く熱い想いが戦前の美術展開催から戦後すぐの県展開催につながったのではないかと思われる。
Q 45 大正時代に、総曲輪にあったという映画館「帝国館」の外観の写真を見たい。
A 45  「帝国館」は、1985年(昭和60年)に閉館されるまで、長く富山市民に親しまれた映画館である。洋・邦の数々の映画が封切られ、鑑賞に足を運ばれた方も多いことだろう。明治時代に開設された当初は芝居小屋であったが、大正に入って映画が盛んになると、映画常設館に転じた。その後、火災や空襲による数回の焼失を経て、戦後再建されてからは、閉館までに数多くの映画を上映してきた。外観の写真が見たいとの質問なので、当時の総曲輪の様子がわかる資料を調査した。 
『総曲輪懐古館』(巧玄舎 1977)には「明治に栄えた芝居小屋「歌舞伎座」が「第三福助座」となり、その名も「帝国座」と改めて映画館に転身したのは、大正6年6月1日の山王さん祭りの日だった。それが大正13年の4月に、映写室から火を出して全焼し、12月に再建されてから「帝国館」になった」との記述がある。
『総曲輪物語』(桂書房 2006)に空襲前の富山市中心部の地図があり、本願寺西別院の敷地内に「映画館帝国館」があったことがわかる。当時の映画館や現在のWIZシネマについて書かれているが、写真は載っていない。(「富山映画劇場」「東洋館」「松竹館」の外観写真はあり)
『ふるさと富山歴史館』(富山新聞社 2001)にも帝国館の写真はない。『とやま映画100年』(北日本新聞社 1999)では富山初の活動写真常設館「富山電気館」が拡充のために「福助座」を買収し「帝国座」に、その後全焼により新築し「帝国館」になったことがわかる。
帝国館の写真は、大正時代の建物、昭和21年に再建された建物のいずれも見当たらなかった。
Q 44 金山茂人(東京交響楽団の最高顧問)の祖父で、立山の村長から代議士になった人物(名前は不明)について知りたい。
A 44  最初に金山茂人で何か資料がないか調べたところ、『楽団長は短気ですけど、何か?』(水曜社2007)という著作があり、「祖父が金山従革」という記述があった。
 次に“金山従革”で検索すると、『越中人譚第48号』(チューリップテレビ2002)に収録されており、また、『富山大百科事典』(北日本新聞社1994)にも項目があった。
 他に『富山県郷土人物索引 第1集~4集』(富山県立図書館)の“金山従革”の部分に以下の資料があり図書館が所蔵するものについては提供した。
 『五百石地方郷土史要』(五百石区域小学校長会郷土史研究1935)、『郷土に輝く人びと 第6集』(富山県1975)、『明治・大正・昭和の郷土史18 富山県』(昌平社1982)、『立山町誌』(「五百石町誌」と「五百石地方郷土史要」の複製合本、新興出版社1982)、『立山町史 下巻』(立山町1984)、『先人の足跡探歩』(中井信光1990)、『富山県民とともに』(北日本新聞社1984)。
 金山従革は、1864年に立山村(現立山町)に生まれ、1889年初代立山村長となり30年近く務めた。1898年衆議院議員に当選。県会議員としても活躍し、郷土立山村の発展を願って、立山製紙や立山軽便鉄道などを興したほか、富山日報社の社長に就任するなど近代産業の育成に努めた。文化人として詩や書にも優れ、立山72峰にちなみ“七十二峰山人”と号した。
Q 43 故事成語“かいよりはじめよ”は英語で何と言うか。また、英語の“It take one tono one”は日本語で“かいよりはじめよ”にあたるか確認したい。
A 43  最初に『成語林』(旺文社1992)で日本の諺について確認した。“隗(かい)より始めよ”とは、「すぐれた人物を招くためには、自分のような平凡な者を重く用いることからまず始めるのがよい」という意味で、「大きな事業もまず手近なことから始めるのがよいという教えであり、転じて、何事も言い出した者からまず実行すべきであるの意にも用いられる」と書かれていた。“まず隗より始めよ”と、“まず”をつけても言うとあった(中国の故事)。
 次に『日英比較ことわざ事典』(創元社2007)を見ると「まず隗より始めよ」が載っていて、英文の“Practice what you preach”(自ら説くところを実行せよ)があがっていた。意味としては、「事を起こすにはまず自分自身から着手せよ」の意味で用いられる、とあった。他に『現代英語ことわざ辞典』(リーベル出版2003)などの辞典を見たが該当するものはなかった。
 “It take one to no one”については文法的には不自然なので、おそらく“It takes one to know one”ではないか辞典を調べたが、どれにも該当するものは載ってなかったと思われる。インターネットでの情報では、この文の意味を問う質問に対して答えが載っていた。それによると、“It takes one to know one”の意味は「自分がそうだから相手もそうだと思う(ある人を批判した場合、批判した人自身が批判された人と同じ欠点がある)」で、悪口をいわれた人が「あなたに言われたくない」「お互い様」と言う時に使う、と書かれていた。
Q 42 台湾の「阿美族」という民族について知りたい。
A 42  『文化人類学事典』(弘文堂 1987)には、【アミ Ami】の項目があり、「阿美族は、高砂族中最大の人口を擁する集団でアミが通称となっている。早くから漢民族と交流し稲作をはじめとする文化を受け入れてきた。しかし、近年まで固有の慣習を多く残していた。一般にアミ族は、婿入り婚が行われたということで母系制大家族を形成していた。家長は最年長の女性で、日常生活の実権を握り、重要な財産は母から娘たちに相続されていた。こうしたアミ族の伝統も日本統治期から徐々に消滅し、婿入り婚に代わって嫁入り婚が一般になり、母系制が崩壊してきた」と解説がある。
 『世界民族事典』(弘文堂 2000)には、【アミ 阿美族 阿眉族】の項目があり、「親族組織は、婿入り婚を取る限り母系的に構成され、台湾中部のアミ族では本家分家からなる明確な集団を構成していた」と解説がある。
 『図説台湾の歴史』(平凡社 2007)では、先住民「高山族」のひとつとして「アミ」の呼称があり、台湾先住民族分布図には、東海岸部に「アミ族」の名称がある。
 『現代台湾を知るための60章』(明石書店 2003)では、「アミ族は全人口の約2パーセントであるが、居住している面積は台湾の半分を占めており、特に東海岸部に集まっている。2003年までに認定されている先住民は、最新のタロコ族までを含めて、12族、39万人」と解説がある。
Q 41 富山出身の力士「剣山」について知りたい。
A 41  『富山県大百科事典』(富山新聞社 1976)には、【大相撲】の項目が279ページにあり、剣山については、歴代越中力士の今日までの歴史が解説されている。江戸期文政年間(1818~29)に11年も大関を続けた剣山(富山市)が上覧相撲で横綱の不知火と名勝負を行い、越中力士の名をあげていると書かれている。
 『日本相撲大鑑』(新人物往来社 1980)では、天保年間(1830~44)の二十山部屋の大関剣山谷右衛門(富山市)は、横綱の不知火・秀ノ山とともに「天保の三傑」に数えられる。剣山は横綱に推挙されたが、自分は身体が小さいから見栄えがしないと固辞した奥床しい逸話の持ち主であると解説がある。
 『国技大相撲の100傑』(講談社 1977)では、【大関 剣山谷右衛門】として取り上げられ、当時の錦絵の図版と共に本名、生年月日、出身地、しこ名、身長、体重が記されている。 また、11年・21場所の間、大関の栄位を恥ずかしめなかったのはおそるべき持久力といえる。19年という長い幕内生活でありながら勝率もよく、古今二十傑にはいる横綱級の強豪だったと解説がある。
 『富山県郷土資料総合目録』(富山県立図書館 1962)には、『加越能力士大鑑』(富山県立図書館所蔵)が記載されている。この目録は、富山県下の公共図書館及び富山大学に所蔵する郷土資料の総合目録であり、収録する文献に解説を付した解題書誌として活用できるものである。
 『加越能力士大鑑』(加越能力士大鑑発行所 1912)には、「剣山谷右衛門」、越中富山の産、江戸天保期の実力ある大関であったことを入門時から詳細な記述がある。
Q 40 八尾にあった丸山焼について知りたい。
A 40  『八尾町史』(八尾町役場 1977)の「町人の文化 丸山焼」には、「文政十二年(一八二九)の頃、越中国婦負郡丸山村の甚左衛門が開窯したものである」の記述があり、『富山大百科事典 上巻』(北日本新聞社 1994)には、「越中丸山焼」の項目に「婦負郡杉原村丸山(現八尾町)で営業した陶磁窯」とある。
 『杉原地区と文化』(八尾町杉原地区文化財保存顕彰会 1956)中の「丸山焼」の項は、杉原村居村の山田兵庫老の稿を転載したものである。創窯から終窯に関する記述と窯元たちの略系図がある。創窯の時期については、文政12年(1829)が有力と注記にあり。明治27年に終窯となっている。丸山焼の祖:甚左衛門や窯の盛衰に関する詳細な記述がある。
 『越中の焼きもの(富山文庫)』(巧玄出版 1974)の巻頭カラー図版の中に、「越中丸山焼 色絵牡丹文小鉢」がある。「江戸時代の多様な展開」の項には、染付高杯や香炉、窯跡碑の写真と共に「丸山焼系の窯 越中丸山焼」が収録されている。
 『私たちが見出した八尾町に遺したい文化財候補者たち』(八尾町教育委員会 1995)、『文化誌日本 富山県』(講談社 1987)には、丸山焼数点の写真と簡単な解説がある。
 なお、県立図書館に、1928年頃に杉原村役場が記録した『丸山焼沿革並出品目録』(10丁 25cm)や1935年に富山市立図書館が記録した『陶器丸山焼鑑賞会出品目録』(7p 26cm)、1975年に富山市郷土博物館が編集した『越中丸山焼展』(4p 26cm)などの資料を所蔵している。これらの記録や編集物は、当時展覧会に出品された丸山焼の種類や出自がわかる貴重な資料となっている。
Q 39 大正12年富山市では秋季学年制を導入し9月に入学式を実施したという。これは富山市独自の制度だったのか、全国ではどうであったか知りたい。
A 39  『富山大百科事典』(北日本新聞社 1994)の「秋季学年制」の項目に、富山市の小学校8校で、1923年(大正12)から34年(昭和9)まで実施されたとある。24年の入学児童のうち、早生まれの児童を半年以上繰り上げて23年9月に入学させ、同一学年内に秋季学年組と通常の4月入学の普通学年組の二つが併設される「二重学年制」ともいえるものだったとある。法規上は「小学校令」施行規則の範囲に入り問題はなかったが、当時全国の公立小学校の中に実施校はなく、広島高等師範附属小学校だけが実施したとあった。
 『富山市史 通史』『富山市史 通史編 4 近代下』『富山県教育史 下』『富山県の教育史』についても、内容はほとんど上記と同じ簡単な解説があった。
 インターネットで「秋季学年制 富山市」をキーワードに検索すると、『国立教育研究所広報 111号』(1997)に収録された『学年制「二重化」の是非』という論文が紹介されていた。この制度は富山市独自のものではなく、1909年(明治42)文部省の小学校施行規則(省令)25条改正によるものであり、全国の状況や導入に至る経過など詳しい記述がある。公立では11府県が実施し、実施校が多く実施期間も長かったのは富山県であったと明記されている。
 なお、県立図書館に、当時富山市が発行した『秋季学年制』『秋季学年経緯録』『秋季学年概要』という資料を所蔵している。
Q 38 富山県内のらせん水車について、歴史、仕組み、特色などを知りたい。
A 38  『富山大百科事典』(北日本新聞社 1994)の「螺旋(らせん)水車」の項目に写真・図解がある。「戦前の富山平野で爆発的に普及した農業用水車で、東砺波郡南般若村(現砺波市)の鍛冶・元井豊蔵が考案したこと。細長い筒に鉄板の羽を螺旋状に取り付けた水車で、脱穀機や籾摺り機などの動力に利用されたが、戦後電動機に切り替わり60年代には大半が廃止されたこと」の記述がある。
 次に「螺旋水車」「水車」をキーワードにした蔵書検索から以下の資料を調べてみた。『富山写真語・万華鏡』は、「鰤」「北前船」「合掌造り」など毎号一つ富山の事象をテーマに、白黒写真と識者の文章を織り交ぜた構成の月刊誌である。57号で「螺旋水車」を取り上げている。富山県は、その地形や豊富な水量をもつ河川に恵まれていることから、当時、改良を重ねた螺旋水車が次々と製作され、農業の機械化に貢献したことがわかる。
 『富山民俗の位相』(桂書房 2004)『砺波の民具』(砺波市立砺波郷土資料館 2006)には図や写真と簡単な解説がある。『螺旋水車』(田中勇人1990)は、螺旋水車に関する年表や現存する螺旋水車一覧、農業用水車台数の推移などの資料をはじめ、歴史、種類や仕組み、製作業者の変遷などについて、著者が学生時代から調査した全てが収録してある資料である。
 『水車と風土』(古今書院 2001)『水車の技術史』(思文閣出版 1987)の中にも富山県の螺旋水車に関する記述がある。
 また、砺波市のチューリップ公園に隣接している「水車苑」や城端町の「城端水車の里」、井波町の「らせん水車の館」などで実物を見ることができる。
Q 37 新酒ができた印に酒造会社の軒下につるす「杉玉」について、別名、由来を知りたい。
A 37  飛騨古川の「杉玉」の新聞記事を読んだ質問者は、自分の記憶では違った名称であったと話された。
 初めに『日本国語大辞典』(小学館 2001)を見ると「杉の葉」の項に、「酒屋の看板としてつるした杉の葉の玉。酒林。」とある。『日本民俗大辞典』(吉川弘文館 1999)の「杉」の項には、「杉の葉は日本酒の醸造時に酒の中に浸し防腐用に使った」とあるが、名称は記載されていない。
 『日本酒大事典』(彩光社 1979)には「杉の門」の項に、「酒林(さかばやし)という杉の葉で玉をこしらえて酒店で新酒発売の合図とした。以前は杉の門を建てたという」とあった。次に「酒林」を見ると、「三輪神社から送られた杉の枝を酒屋の軒につるしたのが始まり」とあり、「杉玉」にまつわる一休和尚の歌などの古い書物の文章もいくつか紹介されていた。
 また、『日本の酒文化総合事典』(柏書房 2005)の「酒屋の看板」の章によると、名称については「酒林」のほか「酒箒・酒葉・杉葉・杉の丸・杉玉・杉林」など類称が多いとあり、酒林の形の変遷図が載っている。
 質問者は「酒林」と覚えていたらしい。これは、江戸初期に現れた酒屋の目印で、杉の葉を束ねて球状に細工をし、軒先に吊り下げたものである。由来には諸説があるが、中国から伝えられたものとする説が多いとある。
Q 36 江戸時代の時刻は、日の出・日の入りを基準に等分して時間を決めていたので、夏と冬では一刻の時間が違っていたらしい。このことについて詳しく知りたい。
A 36  『ビジュアル・ワイド江戸時代館』(小学館 2002)を見ると、「明治6年(1873)の時刻改正以前は日の出と日の入りを境に昼夜を区別し、それぞれを六等分する方法が主流であった。これを不定時法という。」とある。この方法によると、昼の長い夏至では、昼一刻の実質時間も長いが、昼の短い冬至では、昼一刻の実質時間がそれより短くなる、という現象が起きる。現在の時間に換算すると、冬至の昼一刻は、夏至の昼一刻より、およそ50分も短い。
 さらに、昼と夜の長さが同じである春分・秋分の日は、一日を通して、一刻の長さが均等であるが、夏至は夜より昼のほうが長いため、夜の一刻は短く、昼の一刻はそれより長い、という現象も起きる。夜が明けると、とたんに一刻が長くなってしまうわけである。逆に冬至になると、夜の一刻は長く、昼の一刻は短い。
 ほかに『暦の百科事典』(本の友社 1999)には、この不定時法を含め、古今東西の時刻法や暦法に関する情報が、詳しく紹介されており、参考になる。
Q 35 戦前、富山にあったという芝居の劇場「新富座」が、どの場所にあったか知りたい。
A 35  富山は昔から、芝居の人気が高いところである。江戸時代の越中浄瑠璃や歌舞伎から、明治時代の新劇、昭和時代の映画にいたるまで、さまざまな民衆娯楽が、常に暮らしとともにあった。
 さて、『富山市史・通史』(富山市 1987)『富山大百科事典』(北日本新聞社 1994)をみると、明治23年、餌指町の中教院前(現在の堤町通り二丁目あたり)に「新富座」が建てられた、という記事がある。惜しくも昭和20年8月の空襲で焼失してしまったが、芝居好きの富山人に愛され、大いに賑わったようで、大正4年、同所で公演をおこなう、初代中村吉右衛門の写真が残されている。
 『鼬川の記憶』(桂書房 2004)には、八尾正治氏執筆の「鼬川芝居色彩図」という一章があり、「新富座」をはじめ、いたち川流域にあった劇場7軒を詳細に紹介してある。ここには八尾氏の作図になる「新富座の位置見取り図」が掲載されており、現在の中教院前交差点と、堤町通り交差点の間にあったことがわかる。 同地周辺は他にも、清水座、大正座、演舞館など、多くの劇場・芝居小屋が軒を並べ、富山の演劇の中心地として、活況を呈していたようである。
 『富山柳町のれきし』(柳町郷土史刊行委員会 1996)や『明治の富山をさぐる』(水間直二 1979)などでも、当時の状況をうかがうことができる。
Q 34 「少年老い易く学成り難し」という言葉の続きを知りたい。
A 34  『故事成語名言大辞典』(大修館書店 1988)には、巻末に見出し語・類句・関連語から引くことのできる総合索引がある。「少年老い易く学成り難し」の項に、南宋の朱熹(朱子は敬称)が自己の体験に基づいて感ずるところをうたった詩「偶成」の詩句とあるが、「一寸の光陰軽んず可からず」までしか載っていない。
 次に見た漢詩の辞典『漢詩漢文名言辞典』(東京書籍 1985)にも、朱熹の別の漢詩の解説の中にこの文があるが、全文は載っていない。同じく『漢詩の辞典』(大修館書店 1999)には、下記にあげた全文が紹介されていた。偶然に作られた詩を「偶成」といい、有名なものがこの朱熹の詩であるという。日本でよく知られているこの詩は、最近の研究によれば、朱熹の真作ではなく、日本の禅僧の作らしいともある。
  少年老い易く 学成り難し
  一寸の光陰 軽んず可からず
  未だ覚めず 池塘春草の夢
  階前の梧葉 巳で秋声
Q 33 〔お〕を「大きいお」、〔を〕を「小さいを」と呼ぶのは、富山県固有の習慣だと北日本新聞に紹介されていた。全国的または一般的にはどんな呼称を使うのか。
A 33  『日本国語大辞典』(講談社 2001)、『広辞宛』(岩波書店 1991)、『大辞泉』(小学館1995)の国語関係辞書には、用法・用例は記載されているが、呼称の違いなどの説明はない。方言関係図書『とやまのまちのことば』(廣文堂 1983)、『おらっちゃらっちゃの富山弁』(北日本新聞社 1992)、『日本のまんなか富山弁』(北日本新聞社 2001)なども調査したが呼称に関する記載はない。
 手がかりを得るためにインターネット検索をしてみると富山県固有であるとの情報が多い。その中に参考文献として『都道府県別 気持ちがわかる名方言141』(講談社α新書 2005)が紹介されており、県立図書館に所蔵していたので借用した。《小さい「お」=助詞の「を」、その呼称には各地にバラエティーがあり、「腰曲がりのお」「かぎのお」「重たいお」など。ちいさい「お」と表現する地域はほぼ富山県に限られる。》と書かれており、2頁ほどの解説があった。
 現在の小中学校ではどのように教えられているのか教職員や児童に尋ねてみたが、質問の呼称はあまり使っていないようである。「あ行のお」「わ行のを」「おとうさんのお」「くっつきのを」「接続のを」などと表現されているらしい。
Q 32 明治のはじめ、立山を通って長野に抜ける立山新道は、その険しい道程ゆえに維持管理が難しく、わずか数年で廃業し今は残っていないが、その当時の道筋が知りたいので、地図や図面などの資料をみたい。
A 32  「立山新道」に関する本は見つからなかったので、類似の「立山道」の本をあたってみる。『富山県歴史の道調査報告書 立山道』や『富山県歴史の五街道』(塩照夫、1992)を探すが、「立山新道」に関する記述は見つからない。
『富山県史 通史編V 近代上』には、立山新道の経路の簡単な説明が掲載されていたが、図はなかった。
 質問者から、富山側は旧大山町を通っていたとの手がかりを得て、『大山町史』(大山町1964)、『大山の歴史』(大山の歴史編集委員会 1990)を調べてみると、後者に「日本アルプスを越す立山新道」という章があり、有料道路の開通から失敗までの流れが詳しく書かれていた。その中の545ページには、立山新道見取図があり、ザラ峠~平ノ小屋~針ノ木峠を経由して大町に至る経路図がわかりやすく紹介されていた。
 また後日、『異人たちが訪れた立山カルデラ -立山新道と外国人登山-』(立山カルデラ砂防博物館・企画展)の中にも、立山新道に関連する絵図の写真が掲載されていることがわかり、合わせて提供した。
Q 31 富山市岩瀬地区にある「森家」を造った北前船回船問屋の森家(一族)の歴史について、由緒や人物等詳しく知りたい。
A 31  ポートラムの開業により、岩瀬地区では観光客が増え、重要文化財「森家」は観光スポットとなっている。この「森家」が建てられた背景を知りたいとのこと。
 『越中百家』上下巻や『東岩瀬郷土史』、『東岩瀬史料』等、基本史料をあたってみるがなかなか森家に関する詳細な記録がみつからない。
 『富山大百科事典』や『富山市の「文化財・史跡案内」』には、重要文化財となった森家の建物についての記述はあるが、その主あるじであった森家については何も書かれていない。
 そこで、森家が北前船の回船問屋であったことから、北前船関係の文献を調べてみると、『バイ船研究』などの資料の中にいくばくかの記述が散見された。
 なかでも『加賀藩の海運史』(高瀬保、成山堂書店、1997)には、第8章・北前船の経営の項で<森林太郎家>として簡単な系図とともに紹介されており、一番よくまとまっていた。
Q 30 富山の名産として有名な「鱒のすし」の歴史や由来、作り方を知りたい。
A 30  富山県のことを調べるときはまず『富山県大百科事典』(北日本新聞社1988)である。「鱒のすし」の項目には、作り方と歴史・由来の簡単な記述がある。『とやまの特産物』(富山県食品研究所 2003)、『ふるさとの味と技』(富山県貿易物産振興会 1985)には簡単な歴史や由来が紹介されている。
 今から200年ほど前の享保2年(1717)、三代藩主前田利興の家臣吉村新八が神通川で獲れるマス(鮎という説もある)と上質な越中米を用いてますずしを作り、将軍吉宗に献上したのが始まりとされる。
 次に、何か写真とともに紹介してあるものがないかと探してみた。すると、『味のふるさと 14 富山の味』の「マスずし」ページに、詳しい作り方が写真とともにわかりやすく載っていた。
 また、富山県に関する事項について特集して出版されている『富山写真語 万華鏡 6』は「鱒のすし」である。これには、すしの歴史や由来、駅弁としての「鱒のすし」について詳しい記述があり、もちろん作り方についても写真はついていないが詳しく書いてある。『日本の郷土料理 6 北陸』(ぎょうせい 1986)には、「鱒鮓」として見開き2ページに歴史や由来、作り方が写真とともに紹介してある。これらの他、ガイドブックなどにも簡単な記述を見ることができる。
Q 29 戦後の富山市で「富山復興の歌」という歌を唄っていたが、1番から3番まで歌詞があったように記憶している。その歌詞の全文を知りたい。
A 29  『富山大百科事典』『富山戦災復興誌』『富山市史』などの基本図書や、『観光富山県の歌』(串田清松)『とやまの歌リスト』などの郷土の音楽関係資料をひととおりあたってみたが、この「富山復興の歌」についての記述はまったく見つからなかった。
 一方、富山の郷土史に詳しく、当館の図書館協議会委員をつとめておられる須山盛彰先生にお尋ねしたところ、これは昭和20年代の8月1日に行われた戦後復興祭で唄われたものではないかという話を伺うことができた。
 そこで、それを手がかりに『富山市史』の昭和20年代前半の記事を探してみた。『富山市史』は編年体で書かれているので、時系列順にたどっていくと、昭和21年から23年にかけての8月1日に復興祭が開催されたという記事が出てきた。
 『富山市史』には歌についての記述は何も書かれてなかったため、当時の新聞を富山県立図書館に依頼して調査してもらったところ、富山新聞の昭和21年8月1日号に、市民からの公募で「復興富山の歌」が選ばれたという記事が、楽譜・歌詞とともに掲載されていた。
Q 28 「ねずみのよめいり」の昔話の成立について知りたい。御伽草子が原典ではないか?
A 28  御伽草子が出典ではないかということなので、まず『お伽草子事典』(東京堂出版)で調べてみた。ねずみの物語としては「鼠草子」という物語があったが、話の内容は「よめいり」とはまったく違っていた。
 次に、『日本昔話事典』(弘文堂)『昔話・伝説小事典』(みずうみ書房)を探してみると、「鼠浄土」「鼠経」「鼠の名作」といった物語が見つかったが、これらもやはり「よめいり」とは別の内容の話であった。
 そこで『日本説話伝説大事典』(勉誠出版)を見てみたところ、ようやく「ねずみのよめいり」は『沙石集』に収録されていた笑い話を元にしているということが判明した。
Q 27 英語のことわざで“May flowers…”という句を含むものがあったと思う。確認したい。
A 27  英語のことわざで“May flowers…”という句を含むものがあったと思う。確認したい。『現代英語ことわざ辞典』(戸田豊編著、リーベル出版、2003)は、英語のことわざを主題別に配列したものですが、キーワード索引が付いていて便利です。Mayをキーワードに、“March winds and April showers bring forth May flowers.”を見つけ出すことができます。「三月の風と四月の雨が、五月の花を咲かせる。」春先の気候を表すもので、英国では三月の風、四月の雨、五月の花は、季語のようなものだとか。実はこれは、『マザー・グース』の中の‘Spring(春)’という詩の全文でもあり、showers、flowersと韻を踏んで調子よく、春が来る喜びが歌われています。また日本語訳には「苦あれば楽あり」の意訳もありました。
Q 26 昭和天皇が皇太子時代に詠んだ「立山の・・・」の和歌が、歌になっているはずだが、その作曲者について知りたい。
A 26  富山県に関する事項を多く取り上げている『富山県大百科事典』(富山新聞社)の「立山御歌」の項に次のように書かれている。“「たて山の空にそびゆるををしさにならへとぞ思ふみよのすがたも」この御歌は、大正14年歌会始で発表され、県民が深く感激し、東京音楽学校に作曲を依頼、「ふるさと」の作曲者岡野貞一がこれに作曲したもの。”また『立山のいぶき』(シーエーピー)、『富山県の今上陛下御製碑』(日本を守る県民会議)などにも載っている。戦前は、県歌のごとくに愛唱され、式典などで歌われていたので覚えている方も多いのでは・・・。
Q 25 幼少の頃に母親がよく作ってくれた、いわしの「こんか漬け」の作り方を知りたい。
A 25  はじめは、魚の漬け物の本はないかと言う質問だったので、料理関係の中から、次のような資料を提供した。
 『新しい保存食〈梅干しからおもてなし料理まで〉』(文化出版局)、『釣魚料理』(成美堂出版)。どちらも味噌漬け、粕漬け、南蛮漬けなど一般的によく作られるものは、掲載されている。
 話を聞いていくうちに、本当に知りたかったのは上記の質問とわかり、郷土関係図書に載っていると思われるので、調査の結果、次の資料を提供することができた。
 『聞き書富山の食事-日本の食生活全集16-』(農山漁村文化協会)、『とやまのふるさと料理 秋冬・人生編』(巧玄出版)。どちらも富山の伝承料理を多数掲載している。懐かしい味に出会える一冊である。
Q 24 「古稀・米寿」などの年祝いの一覧をみたい。
A 24  『現代マナー事典』(講談社 1990)「大人の祝い 賀寿」に賀寿の名称・意味と由来の一覧がある。六十歳もしくは六十一歳の還暦から百二十歳の上寿まであることがわかる。また、『大辞泉』(小学館 1995)『新世紀ビジュアル大辞典』(学習研究社 1998)のような百科事典を兼ねた国語辞典の巻末にも「人生儀礼」として一覧が載っている。その他に『冠婚葬祭 暮らしの便利事典』(小学館 2000)、『図解冠婚葬祭とマナー大事典』(成美堂出版 2004)、など冠婚葬祭に関する図書をみると、長寿の祝いの名称・意味と由来の一覧や祝い方がわかりやすく書かれている。
 また、「銀婚式は25年、金婚式は50年がよく知られているが、結婚1年目からの○○婚式の一覧をみたい」と尋ねられることもよくある。この場合も、先にあげた図書のなかに「結婚祝い」「結婚記念日」としてとりあげられている。
Q 23 ポプラの木は、どんな花をつけるのか。
A 23  ポプラという名前で、植物図鑑を引いてもなかなか見つかりません。慣用的な呼び名で正式名称ではないのでしょうか。そこで便利なのが『植物レファレンス事典』(日外アソシエーツ 2004年)。植物の持つ複数の呼び名や分類の異説などが示され、それぞれどの事典に収録されているか検索できます。これによると、ポプラは〔ヤナギ科の落葉高木。別名ピラミッドヤマナラシ、イタリアヤマナラシ。または、ヤマナラシ属総称。別名ハコヤナギ、ヤマナラシ。〕ということ。紹介されている収録図鑑は11点。
 その中から、『原色牧野植物大図鑑 離弁花・単子葉植物編』(北隆館 1997年)と、『原色樹木大図鑑』(北隆館 1987年)を選んでページを繰ると、前者には【セイヨウハコヤナギ(ポプラ)】の見出しで果実の図版が、後者には【イタリアヤマナラシ(セイヨウハコヤナギ)】の見出しで花の図版が載っていました。〔雌雄異株。春に葉に先がけて尾状花序を垂らす。〕と説明がありますが、よほど目立たない花なのでしょう。インターネット上でも、綿毛のような実を紹介するページは多いのですが、花の写真は見あたりませんでした。
Q 22 昭和13年当時の樺太の地名、敷香町の読み方を知りたい。
A 22  まず、『角川日本地名大辞典 1 北海道』(1979年 角川書店)、『日本歴史地名体系 1 北海道の地名』(2003年 平凡社)を見るが記載がない。
 そこで、古典的な参考書ともいえる『大日本地名辞書 第8巻 北海道・樺太・琉球・台湾』(1979年 富山房)を見ると“敷香支庁区”として紹介があり、シクカと読むことがわかった。
Q 21 富山市の中心部を流れる松川べりに彫刻がいくつもあるが、それらがすべて紹介してある資料をみたい。
A 21  最初に、『富山大百科事典』(1994年 北日本新聞社)をみると、松川べり彫刻公園の項に“水と緑のプロムナードをテーマに、県内の代表作家28人の彫刻作品を設置した”と書かれているが、具体的な作品の記述はない。
 次に、『富山の野外彫刻』(1991年 桂書房)をみると、9つの作品の写真と解説がされているが、それ以外の作品については記載されていない。
 そこで、富山市の観光振興課に問い合せたところ、パンフレット、「松川べり彫刻公園~彫刻作品ガイド~」があり、写真、設置されている場所および全作品の紹介がされているということだった。
 ちなみに、数部を図書館にいただくことにした。
Q 20 富山市や他の市町村の合併の歴史・沿革について知りたい。
A 20  きたる平成17年4月1日に富山地域7市町村の合併予定を控えて、上記のような質問がしばしば寄せられています。
 富山市に重点を置いて合併の流れを知りたい場合、『統計から見る富山市』『富山市統計書』などに市域の変遷としてアウトラインが示されていますが、より詳しく調べたい場合は『富山市史 通史〈下〉』をご覧ください。中の〈富山市の誕生〉や〈昭和初期の大合併〉、〈市町村の合併〉といった章段に、富山市域の合併の流れについて詳しく解説されています。
 一方、県内全域にわたって市町村の合併の動きについて調べたい場合には、『富山県史 通史編 近代』のほかに『富山県市町村の歩み』(1955)や『富山県町村合併誌』上下巻(1961)などがあります。特に『富山県町村合併誌』は明治期の町村が合併・編入をくり返し現在の市域となっていく過程が表で一覧でき、わかりやすくなっています。ただし、この本は1961(昭和36)年発行のため、それ以降に合併した水橋町・呉羽町については別 個に紹介されています。
 このほか、須山盛彰先生が執筆された『富山県における市・町村合併の経緯と問題点』(『自然と社会』第68号別刷 2002)という小冊子があり、最新の情報源になっています。 なお、現今の県内市町村合併の動きについては、新聞記事をまとめたものを参考図書室に備えてありますので、そちらもご利用ください。
Q 19 ギリシア料理にはどんなものがあるか。できれば自分でも作ってみたいので、レシピを写真つきで紹介した本を見たい。
A 19  ちょうどアテネオリンピックの開催の時期にあわせて、上記のような質問が寄せられました。フランス料理やイタリア料理ほど日本では一般的なものではないため、普通の料理の本では見つかりませんでした。
 『世界の味探求事典』(東京堂出版 1997)では、【ギリシア料理】の項目の中に「ギリシア料理の特長は、(1)トマト、オリーブ油をよく使う。味付けの濃い料理が多い。(2)ギリシア正教徒は豚肉を食べない。(3)仔牛肉、仔羊肉、鶏肉、タコ、イカ、ジャガイモ、ナス、キュウリ、ピーマン、キノコをよく用いる。」と書かれており、メゼデス、タラモサラタ、トゥルシ、ムサカなどが代表料理としてあげられています。しかし写真がないため、これだけではどんな料理かわかりにくいのが惜しまれます。 次のようなギリシアのガイドブックにも、ギリシア料理についてのページがあります。『ギリシャを知る 世界遺産とエーゲ海(PHP新書)』(PHP研究所 2004)、『ワールドガイド ギリシア・エーゲ海』(JTB 2001)、『各国大使館発 世界の食卓 ヨーロッパ編』(家の光協会 1996)。こちらはカラー写真が簡単な解説といっしょに掲載されています。
 かえって子ども向けの本に、ギリシア料理のレシピが写真・イラストつきで掲載されていましたので合わせてご紹介します。『世界の料理絵本』(キャロライン・ヤング著、集文社 1993)、『世界の国ぐに その国土と人びとのくらし 9』(ポプラ社 1978)
Q 18 江戸時代、長崎にあったオランダ商館の歴代商館長の名前を一覧したい。
A 18  最初に、日本歴史の百科事典ともいわれる『国史大辞典』(全15巻 吉川弘文館 1979年)を見ると、3頁にわたり解説が載っています。「オランダ商館」は、1609年平戸に開設されたオランダ東インド会社の日本支社で、鎖国によって1641年長崎出島に移転し、1858年開国後は、領事館になったとの記載があります。併せて、商館長名と在任期間の一覧も掲載されています。
 次に、『日本史総覧』(全6巻 新人物往来社 1983年)を調べてみます。これは、時代別に諸表、諸一覧がまとめられているもので、オランダ商館長一覧のほか、平戸・長崎オランダ商館長江戸参府一覧も収録されており、かなり詳しい資料を見ることができます。
 このほか、『日本歴史大事典』(全4巻 小学館 2000年)を調べてみると、こちらにも一覧が記載されていて、参考文献として「長崎オランダ商館長日記」等が載っています。そこで書名検索をしてみると、当館では次の2誌を所蔵していることがわかりました。
 『平戸オランダ商館の日記』(永積洋子訳 全4巻 岩波書店1980年)と、『長崎オランダ商館の日記』(村上直次郎訳 全3巻 岩波書店 1980年)は、当時の商館長が記録していた日記の翻訳本であり、日本文化史の重要史料であるので、興味のある方は、ぜひ読んでいただきたいと思います。
Q 17 関原健夫著「がん六回人生全快」の中で紹介されていた。高橋たか子の「臨床日記」を読みたい。
A 17  著名な作家であるので、すぐにわかると思いましたが、書名や著者名検索をしてもみつかりません。そこで紹介されていた本で確認すると、「夫の高橋和巳が大腸がんの肝臓移転の発見後、半年で逝去するまでの苦闘の日々を描いた作品」との一文がありました。
 高橋たか子氏の作品の中に、夫和巳との思い出を綴った手記『高橋和巳の思い出』(構想社 1977年)があります。その目次をみると、三項に質問の『臨床日記』が収載されていることがわかりました。
Q 16 以前テレビで放映されていた「白い影」の原作を読みたい。
A 16  書名で検索しても該当のものがありません。ドラマ放映等の場合、原作名そのままではないことが多いので、手掛かりを得るために、インターネット検索をしてみました。
 「白い影」公式ページというサイトがあり、2003年新春ドラマスペシャルとして放映された作品であることがわかりました。その中のスタッフ紹介のページに、原作『無影燈』(渡辺淳一)と掲載されています。
 当館では、角川文庫(1994年)や『渡辺淳一全集』(角川書店 1995年)に収録されており提供することができました。
Q 15 手伝町に住んでいたのだが、なぜ「手伝」という名前がついているのかその由来を知りたい。
A 15  『富山市町名の由来』『城下町富山の町民とくらし』『富山町づくし』『角川日本地名大辞典』などによると、「手伝町」とは江戸期~昭和40年に使われた町名で、舟橋船頭の手伝人が居住していたことからこの名前になったとあります。舟橋に関係して成立した町にはこの他にも「船頭町」「舟橋新町」などがあるようです。
Q 14 桃井町の郷土史を作るのに、年代順に古地図があれば見たい。
A 14  当館には、江戸時代、明治、大正、昭和(戦前、戦後)の富山市街図の複製を所蔵しています。上記のご質問では、『万治年間富山旧市街図』(江戸初期)『旧富山城下市街図』(天保2年)『富山県上新川郡富山市街見取全図』(明治18年)『富山市街図』(昭和24年)の地図をお見せしました。その他の地図については、『富山市を主とした富山県関係地図総合目録』(富山市立図書館・編)をご覧下さい。
Q 13 現在の富山市立西田地方小学校は、明治の頃、「立志小学校」と呼ばれていたが、富山市で何番目にできた小学校なのか知りたい。
A 13  いつ頃創立されたか、という質問はときどき受けるが、上記のような質問は珍しい。さっそく、『富山県教育史 上巻』を調べると立志小学校は、明治6年に創立されたことがわかる。しかし、同年に創立された小学校はいくつもあり、何番目かはわからなかった。そこで、『富山市史 第1巻』『富山市史 通史 下』を見るが明治6年に創立されたこと以外は、載っていない。次に、昭和24年から所蔵している『富山市教育要覧』(富山市教育委員会 編)の昭和26年版を調べると、創立年月が載っており、何番目にできた小学校かが一目でわかるようになっていた。西田地方小学校は、明治6年7月に創立となっており、数えると、10番目にできた小学校だということがわかった。
 ちなみに、市内の中学校の創立年月も載っている。
Q 12 越中おわら節について調べるため昭和4年に出版された『小原節大全』を見たい。
A 12  自館の蔵書を検索しましたが所蔵していませんでした。富山市立図書館は昭和45年に開館したためそれ以前の図書はあまり所蔵していません。そこで『富山県郷土資料総合目録』を見ると、小杉町立図書館で所蔵していることがわかり、県立図書館をつうじて取り寄せました。この図書館で所蔵していない図書も県内の図書館や国立国会図書館から借用できることがあります。
Q 11 水島柿の名前の由来を知りたい。
A 11  柿がおいしい季節。上記のような質問を受けた。
 そこで、『果実・種実』(新・食品事典 6)を調べるが出てこない。次に、『カキ・キウイ』(果樹全書 農文協・編刊)を調べると、北陸地方で栽培される甘柿と記されていた。
 もしやと思い、『富山大百科事典』を見ると、射水郡原産の甘柿の品種名である、と書かれていたが名前の由来までは載っていなかった。
 次に、『ふるさとの味と技 いきいき富山特産品ガイド』『富山の特産』を見ると、大正2年に富山農会が発行した『園芸要鑑』には「今より200年以前、片口村大字大場村の住人前川弥三郎なるもの果樹の栽植に熱心にして…、栽培を村民に勧めたる結果射水一円の特産として名声遠近に知られるに至れり…」と記されていると、載っていた。しかし、由来まではわからない。
 そこで、『新湊市史 近現代』を見ると、「江戸時代の中頃から当地域を中心に射水平野一円にわたり、各家の屋敷内に栽培され、それは主として自家で消費するためのものであった。」と書かれているが、それ以上はわからない。もう一冊、『片口今むかし』(市立片口公民館片口今むかし編集委員会 編)を見ると、「昭和50年市指定天然記念物。高場が発祥地で、明治になって水稲奨励優良品種「水島」にちなんで命名された」と書かれていた。
 これで答えが出たようなものだが、もうひとつ納得がいかない。そこで、『新湊の文化財』(新湊市教 育委員会 編)を見ると、明治の頃の水稲の品種で味・収穫ともに優れていた「水島」から名付けられたと付け加えられていた。
Q 10 福光町で、なぜバットが生産されるようになったのか。
A 10  あのイチロ-選手の木製バットも作っている福光町のバット工場。まず、『富山大百科事典』を見るが、記述がない。そこで、『福光町史 上』を見てみると、木材資源の豊富なこの町が大正時代の木製挽物玩具に始まり、戦後、バット生産が盛んになったいきさつなどが、詳しく書かれていた。『ふるさとの味と技~いきいき富山特産ガイド~』にもバット工場についての簡単な記述がある。
Q 9 2002年の漢字は“戦”だったが、2001年、2000年、…の漢字は何だったか。
A 9  この質問を受けた時、世相を反映して今年の漢字は、“戦”だったという数日前の新聞記事を思い出した。そこで、いきなり最新情報が入っているYahoo!で“世相”と入れ検索。日本漢字能力検定協会ホ-ムペ-ジを探し出す。ここには、1995年~2000年までのその年の世相漢字が載っていた。なぜその漢字になったのかも書かれていた。ちなみに、単純に“今年の漢字”と検索してもいき当たる。
 「今年の漢字」:財団法人日本漢字能力検定協会が、漢字の奥深い意味を伝授する活動の一環として、毎年年末に新聞、雑誌、インタ-ネットにて全国公募により1年の世相漢字を決定しているもの。
Q 8 千葉県船橋市高野台という場所を地図で確認したい。この場所は、太平洋戦争当時、軍の施設あるいは野戦砲場、練兵場のようなものがあったらしい。また、当時の様子がわかるものがあれば見てみたい。
A 8  質問者のご高齢の父上が、兵隊として行ったことのある高野台を訪問したいというので調べているという。『関東道路地図』『角川日本地名辞典』『千葉県の地名』『郷土資料事典』『千葉県の歴史散歩』に「高野台」という地名は出てくるが、新興住宅地のようであり、軍関係の記述が見当たらない。そこで、『図説千葉県の歴史』の「戦争と軍郷千葉」の章を見ると、千葉県市川市の国府台(こうのだい)の記述があった。『角川日本地名辞典』で「国府台」を引くと、明治38年に陸軍教導団が廃止され、その跡に野戦重砲兵が駐屯、司令部もおかれ軍隊の町となり、太平洋戦争当時は高射砲陣地となっていたことがわかった。
 父上の記憶も曖昧であり、「コウノダイ」という読みから質問者は「高野台」と考えたらしいが、「国府台」が正確な名称であり、船橋市ではなく市川市であった。『関東道路地図』などで確認すると現在は運動公園になっている。また、県立図書館から『千葉県史』『市川市史』『日本砲兵史』を借用した。
 質問者とお話していくうちに、「軍の施設」という情報を知らせて下さったことが手がかりとなった事例である。調べもののお手伝いをする際には、どんな小さな情報でもいただければ早く解決に結びつきます。
Q 7 クロアチアの国花は何か知りたい。
A 7  サッカーのワールドカップ期間中、上記のような質問を受けた。『最新世界の国ハンドブック』『世界の国花』(1990年刊)『世界地理大百科事典6 ヨーロッパ』などを調べてみるが、どれにも書かれていない(クロアチアは1991年ユーゴスラビアから分離独立した)。
 質問者には調査したが分からなかったと回答したのだが、気になってインターネットを使いYahoo!」でキーワードに「クロアチア 国花」と入れて検索してみた。すると、簡単にクロアチア国花が「ヴェルビド・デジュニア」であることが分かった。しかし、残念ながら写真・図などがなく、どんな花かは分からなかった。
 そこで、名前を頼りに『朝日百科世界の植物』(全13巻)を調べてみたが、掲載されていなかった。 植物の専門家に尋ねようと富山市科学文化センターにも照会したものの、写真は得られなかった。富山県中央植物園に照会すると、アブラナ科の山野草で学名はデジュニア・ヴェレビチカといい、硬貨や切手に描かれているけれど日本では手に入らない植物だということが分かった。つい最近、『世界コイン図鑑』(2002年刊)という大部の図鑑を購入したので、調べてみるとこの花をモチーフにした硬貨が掲載されていた。
Q 6 地縁団体として許可を受ければ、町内会名義で土地・建物の登記ができると聞いたが、どのような手続きをしたらよいか。
A 6  『現代法律百科大事典』で「地縁による団体」の項目を見ます。住民の地域的共同活動を行なう団体、いわゆる自治会や町内会のことを指しますが、これらの団体には、一般には不動産登記等を行なう権利能力がありません。しかし、市町村長の認可を受けることによって、その権利を得ることができます。もちろん一定の要件を満たすことが必要です。具体的には『自治会、町内会等法人化の手引き』に詳述されています。
 また、『町内会・自治会の新展開』『町内会物語』『これからの町内会・自治会―いかしあいのまちづくり』なども参考になります。
Q 5 自宅で病気療養をするため、住宅に工夫を加えたい。何か参考になる例はないだろうか。
A 5  最近、在宅介護に関する本があいついで出版されています。『在宅ケアとバリアフリー住宅』、『車イスにやさしい家』など、住宅の設計、増改築を扱ったもの。『あかるく介護―介護用品は使いよう、介護は考えよう』、『杖と歩行器がわかる本』といった、福祉機器を取り上げたもの。また、ファッション性も考えた被服を紹介する『おしゃれな介護服―着やすさの提案』や、車イスでの外出のための『人にやさしいクルマカタログ』など、様々です。当館にも多数所蔵しており、よく利用されています。
Q 4 80歳を過ぎた父が小学校のころ国語の教科書で習った「しいの木とかしの実」の全文を知りたい。
A 4  時々このような昔の教科書に関する質問を受ける。 『国定教科書内容索引』を調べ、『尋常科国語読本、第・期第4巻15』に掲載されていたことが分かる。この索引は明治37年から昭和20年までの国定教科書の内容索引で、国語では教科書に収録の題名、人名、件名、和歌・俳句・詩などから、唱歌では題名、うたい出し、件名などから探すことができる便利なものである。
 所蔵の『日本教科書大系』(全28巻)の中から該当の巻を見ると、探している「しいの木とかしの実」が載っていた。
 ちなみに、富山県教育記念館には、明治・大正・昭和の小学校・中学校・高校の教科書約5,000冊を所蔵している。同館に所蔵一覧があり、年代が分かれば閲覧できるそうである。
Q 3 本の中で「蛇歳神」という言葉を見たが、意味を知りたい。
A 3  「蛇歳神」という言葉では、いずれの事典からも検索できませんでした。『広辞苑』『日本国語大事典』『日本民俗大事典』などによると、「歳神」(トシガミ)とは、「年神」とも書き、五穀を守るという神として正月に迎え祭る神であり、「歳徳神」(トシトクジン)あるいは「正月様」のこともさすことがわかりました。また、『ものと人間の文化史 32 蛇』には、各地に「歳神」がおり、共通点として、(1)一本足である、(2)海または山からくる、(3)蓑笠をつけている、があり、正月に「歳神」として迎えられる祖霊は「蛇」であると考えられる、と記載されています。
Q 2 以前に借りた土木関係のCADの本をもう一度見たい。書架へ行ったがなかった。書名、著者名、出版社など覚えていない。
A 2  時々このような質問があります。図書館では、利用者の方が現在借りておられる資料を調べることはできます。しかし、個人のプライバシー保護のため、返却されると貸出記録を消してしまうので、以前に誰が何を借りていたのか一切分かりません。後で必要になる可能性がある場合、貸出記録票を保存しておくか、書名や資料番号(本に張ってあるバーコードの番号)などをメモしておくと役立ちます。
 この方の場合は、書架になかったので、おそらく貸出中だと思われました。キーワードとして「CAD」という言葉が書名に含まれているもので、当館に所蔵している図書を検索すると、35件ありました。検索一覧リストを見てもらったところ、該当の図書は『建築CAD入門』(JISS出版局)と判明しました。貸出中だったので予約していただきました。
Q 1 毎日新聞の余録に美智子皇后さまが、幼い浩宮さまに歌って聞かせた子守唄の一節が載っていた。明治の詩人・宮崎湖処子の「おもい子」という詩に思い浮かぶままにメロディーをつけ、子守唄として外国ご訪問の時残して行かれた、と書かれていた。「おもい子」の全文を知りたい。
A 1  2001年12月1日、敬宮愛子さまがご誕生。さっそく上記のようなレファレンスがあった。
 著者名検索から『明治文学全集』に宮崎湖処子の詩が載っていることがわかる。しかし、この中にはない。参考図書の中から『日本名詩集成』を見るがここにもなし。もう一冊『詩歌全集・作家名総覧・下』を見ると『現代詩人全集・1』(新潮社)、『日本詩人全集・1』(創元社)に収載していることがわかる。しかし、これらは、当館には所蔵していない。
 そこで、県立図書館に問い合わせたところ、『日本現代詩体系・1』(河出書房)に全文掲載されていることがわかる。さっそく、この本を取り寄せて利用者に貸出した。
 ときどき、このような詩、句、名言の全文や出典を求める質問が寄せられるが、そのほとんどは、図書館でお答えすることができる。というのは、質問されるのは、必ずいつか目にしたとか、聞いたとかいうものであり、それは、活字になっている可能性が高いからである。
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