Q再開発の進む富山市西町周辺について、明治から平成にかけての歴史を知りたい。
富山市西町は、図書館本館や、富山市ガラス美術館の入るビル(TOYAMAキラリ)の建設をはじめとして再開発が進み、今、注目を集めています。
まず、明治から大正にかけての街の様子を調べるために、「西町」や「総曲輪」をキーワードに資料を探してみました。すると、『総曲輪物語 繁華街の記憶』(桂書房 2006)や、『総曲輪懐古館』(巧玄出版1977)にその一端が綴られていました。
それらによると、総曲輪が繁華街として発展していくきっかけは、浄土真宗の本願寺派、大谷派の両別院が、濠を埋め立てて建設されたことにありました。明治21年に両別院の仮本堂が完成すると、多くの信徒がお参りに集まり、そば屋や弁当屋などの商店が軒をつらねて、発展の基礎となっていったことがわかります。やがて、芝居小屋や映画館も完成し、大変華やかであったようです。
また、『大正職業別明細図之内富山市』(地図資料、複製)では、大正14年当時の商店などの名前を見ることができました。ちなみに、新図書館の入るビルのあたりを見ると、乾物店や金物店といった商店が連なっています。
さて、昭和に入るとデパートが街のシンボルとなりました。大正12年、富山のデパートのさきがけである「岡部呉服店」が完成し、昭和7年には大和富山店の前身、宮一大丸が開設されます。
『大和五十年のあゆみ』(金沢大和 1972)には、その近代的なビルの写真が掲載されています。また、開設の際の店員募集には、女性店員45名の採用に対し、550余人の応募者があったことが書かれており、デパートガールは当時の憧れの職業であったようです。
『大和五十年のあゆみ』には、「昭和20年8月1日戦災で焼け落ちた富山店」と題して、富山大空襲の被害にあったビルの写真も掲載されています。その様子は、『富山戦災復興誌』(富山市 1972)でも、写真で確認することができました。
また、編年体でまとめられた『富山市史第3巻』(富山市 1960)の昭和20年の項を開くと、「昭和二十年八月十八日 大和富山店は戦災後休業していたが、疎開先から商品を取り寄せ、本日から営業を開始した」とあります。同じく昭和20年11月には、大和富山店の6階を改装して映画劇場とし、戦災市民に三日間無料公開したことが記され、空襲の惨禍からいち早く立ち上がった様子がうかがいしれます。
戦後の街の様子は、『石川富山昭和あのとき ストーリー編』『同、アルバム編』(北國新聞社、富山新聞社 2014)に、豊富な写真で掲載されています。昭和30年代の中教院夜店の様子や、初売り客でにぎわう40年代の中心商店街の写真が並び、往時をしのぶことができます。
しかし昭和60年代に入ると、郊外に大型店が次々に完成した影響もあり、客足は減少していきます。『富山市歩行者通行量調査』(富山商工会議所 1991)を見ると、中央通りにあったマクドナルド前の日曜日の通行量が、昭和47年では4万人近くになっていますが、それ以後は大幅に下降していったことがわかります。
平成に入り、富山市中心市街地の活性化が計画されると、平成19年には「富山市まちなかにぎわい広場」(愛称:グランドプラザ)が完成しました。『にぎわいの場 富山グランドプラザ』(学芸出版社 2013)では、新たな賑わいを創出するための仕組みがわかりやすく紹介されています。新図書館の入るビルをはじめ、これからの街の発展が楽しみです。
Q東京の銭湯経営者に、富山県出身の人が多いのはなぜか。また、最近、東京の銭湯に立山の絵が描かれるようになったのはどうしてか。
まず、「東京の銭湯経営者に、富山県出身の人が多いのはなぜか」という点について調査しました。
『富山県史 通史編5 近代 上』(富山県 1981)を見てみると、「富山県の人口の推移」の項目に、明治期の出稼ぎについて記載されていました。行き先別・職種別の欄には、「東京-商業等各種職業」とありますが、銭湯などの詳細な職種までは記述がありません。『富山市史 通史 下巻』(富山市 1987)にも、該当するものは見当たりませんでした。
そこで、銭湯をテーマにした資料を見てみました。『銭湯』(日本放送出版協会 2009)、『入浴・銭湯の歴史』(雄山閣 1994)を調べましたが、経営者の出身地に言及してある部分はありませんでした。『銭湯の謎』(扶桑社 2001)を見てみると、「銭湯と北陸の知られざる関係」のページに、「東京の銭湯の初代経営者の7、8割は北陸3県の出身者であることがわかった。」と書かれています。北陸は出稼ぎが多かったこと、のれん分けの際には身内を郷里から呼び寄せたためではないかと、著者は推察しています。
また、商業関係の資料として、「商工とやま」(富山商工会議所)のバックナンバーを調査しました。平成18年12月号に、銭湯についての特集記事があり、「東京に富山出身の銭湯経営者が多い理由」というコラムが掲載されています。家督が継げない次男や三男にとって、一旗揚げるために、銭湯は最適の仕事だったのかもしれない、と記載されていました。
次に、「最近、東京の銭湯に立山の絵が描かれるようになったのはどうしてか」という点について調査しました。
最近の出来事であることから、新聞記事に記載がないかと考えました。富山県立図書館のホームページにある「県内新聞雑誌記事見出し検索」で、〈銭湯〉というキーワードから検索を行います。その結果、北日本新聞の平成22年2月23日、7月8日、23年8月13日に、「東京都内の銭湯の背景画に立山が描かれている」ことが分かりました。
実際の新聞記事を見てみると、富山市物産振興会が富山市の助成を受け、「ホットして富山市PR事業」を行っていることが説明されています。これは、平成22年度から始まった事業で、富山市の魅力をアピールするため、湯船の背景に立山連邦や富山ライトレールを描いたものです。銭湯の背景画といえば、富士山が一般的ですが、首都圏において、富山ブランドや平成27年春に開業する北陸新幹線を広く知ってもらおうという狙いがあるようです。
富山市のホームページから、「広報とやま」のバックナンバーを検索すると、平成23年1月5日号にも同様の記事がありました。 富山市物産振興会のホームページでは、雄大な背景画の写真を見ることができます。また22~24年度に背景画が描かれた、15ヶ所の銭湯の一覧も掲載されています。
Q岩瀬の北前船「長者丸」の漂流事件について知りたい。
富山に関わりのある事柄を調べる事典として、『富山大百科事典』(北日本新聞社 1994)、『富山県大百科事典』(富山新聞社 1976)がある。それぞれ「長者丸」の項目を見ると、同船は江戸時代、太平洋を漂流しアメリカの捕鯨船に救助された北前船で、西岩瀬を母港としていたことがわかった。
『富山大百科事典』には参考文献として、『時規物語(とけいものがたり)』『蕃談(ばんだん)』の二書があげられていた。これらについて調べてみると、いずれも、帰国した乗組員に直接取材した江戸時代の記録書であり、『日本庶民生活史料集成 第5巻 漂流』(三一書房 1973)に収録されていることがわかった。両書ともに図版を多く収録し、乗組員の仮寓先であったハワイ・オホーツク等における現地の風俗が豊富に掲載されている。漂流の経緯もさることながら、鎖国時代の日本人の目に、海外の様子がどのように映ったかを知る手がかりとなる。これらは文語表記であるが、『蕃談』は現代語訳されたものが、『蕃談 漂流の記録1(東洋文庫 39)』(平凡社1965)として、別に刊行されている。
また、『富山県大百科事典』には、文豪・井伏鱒二はこの事件を取材し、『漂民宇三郎(講談社文芸文庫)』(講談社 1990)を書いたとの記述がある。同書は『時規物語』『蕃談』を基にしているが、主人公の乗組員・宇三郎は、架空の人物であり、ストーリーにも創作部分が見られる、独自の作品である。
次に、「北前船」をキーワードに資料を探した。『漂民次郎吉 太平洋を越えた北前船の男たち』(福村出版 2010)は、「歴史ドキュメンタリー」として小説風に書かれた作品である。事件の全体像が読みやすく描かれている。
『北前船長者丸の漂流』(清水書院 1974)は、『時規物語』を分析し、考証を加えた研究書である。「第5章 幕末日魯交渉史との関連」「第6章 幕末日米交渉史との関連」においては、オホーツクで乗組員たちと遭遇したイギリス人の回想録など、外国人側の記述と、『時規物語』の記述を照合し、両者の視点から、幕末期日本の対外関係を明らかにする試みがされている。
さらに、岩瀬の郷土史に関する資料を調べてみた。富山市岩瀬地区には、郷土史研究グループ・東岩瀬郷土史会があり、『東岩瀬郷土史会会報』を定期的に発行している。その中に「次郎吉漂流の物語 -幕末にハワイ、ロシアを見た『長者丸』の乗組員-」(第8号 1983)、「長者丸の漂流と富山売薬薩摩組」(第47号 1993)といった、長者丸漂流事件に関する論文が掲載されている。これらはのちに『東岩瀬郷土史会会報合本 第1分冊~第3分冊』(東岩瀬郷土史会 2007)に再録された。富山の郷土史研究雑誌には他に『富山史壇』等があるが、これらには単行本に収録されていない論文が多く掲載されており、郷土史に関連する事項を調べたい場合には、一見の価値がある。
また、富山市郷土博物館が平成23年に、この長者丸漂流事件を読み物風に扱った、『春の曙 徒然はなし』と題された江戸時代の写本を入手し、新発見資料として話題になった。当時からすでに、世間の注目を集めた事件であったことを示す資料といえる。
Q富山から東京までの列車の所要時間は、どのように推移したかを知りたい。
2015年春、富山県に北陸新幹線が開通する予定である。富山から東京までの所要時間は2時間7分になり、現行の3時間11分よりも約1時間短縮されることになる。今回は、富山~東京間の列車の所要時間が明治~昭和にかけてどのように推移したのかを探ってみた。
1.明治 ―鉄道の開通―
日本で初めて鉄道が開通したのは、明治5年(1872)9月の新橋-横浜間である。富山県では、明治30年(1897)の黒田(現・高岡市)―福野間で開業した中越鉄道が最も古い。官設の北陸線は、「鉄道敷設法」(明治25年)に基づき、敦賀から延長され、明治31年(1898)11月1日に金沢-高岡間が、32年3月20日に高岡-富山間が開通した。
(『近代史研究 第22号』(富山近代史研究会 1999)、『とやま近代化ものがたり』(北日本新聞社 1996)による)
『富山地方鉄道50年史』(富山地方鉄道 1983)には、「運転回数は1日6回の発着にすぎなかったが、ここで初めて鉄道によって関西直結を果し、米原を経由すれば24時間で東京にも通じることとなった」と記載されている。
富山県の鉄道に関する記録が網羅されている 『鉄道の記憶』(桂書房 2006)には、明治41年(1908)に富山-新橋間に直通列車が開通した記事と発着時刻が紹介されている。(「富山日報」記事より)
午後7時7分富山発 翌日午後5時20分新橋
午前9時新橋発 翌日午前9時45分富山
午前5時35分富山発 同日午後9時47分新橋
この記録によると、所要時間が16~25時間とかなり差があったようだ。
2.大正 ―北陸本線全線開通―
路線は、明治41年11月16日に富山-魚津間が、43年(1910)に泊までと順次延長され、大正2年(1913)4月1日には米原-直江津間が全通した。
『鉄道の記憶』には、この結果米原経由で大きな迂回を要していた東京方面への距離・運賃は大幅に縮減し、所要時間もそれまでの20~21時間台から14時間台にスピードアップされたとある。
3.昭和 ―所要時間の大幅な短縮―
『富山県史 現代』(富山県 1983)には、富山から上野間の所要時間短縮の推移がグラフで示されている。
昭和20年(1945) 12時間10分、
昭和40年(1965) 6時間55分、
昭和53年(1978) 5時間45分
所要時間は、昭和20年から53年の33年間で、半分以下に短縮されている。
その後、平成9年(1997)のほくほく線開業や列車の速度が上がったことにより、さらに所要時間は短くなってきた。
4.旧舎・旧線について
明治32年開業当時の富山駅は、現在の田刈屋に仮設された。しかし、9年後の明治41年には現在の位置で新しい富山駅が開業し、旧駅は廃止された。呉羽山の北側を迂回していた旧線は、『日本図誌体系 中部2』(朝倉書店 2011)掲載の明治34年測量の地図で確認できる。また、『ふるさと富山市』(郷土出版社 2009)や『写真集明治大正昭和富山』(国書刊行会 1978)、『北陸線写真帖』(北國新聞社 2007)等に、旧駅や明治末期の富山駅の写真が掲載されており、当時の様子をうかがうことができる。
Q「越中七金山」と呼ばれた亀谷銀山について知りたい。
亀谷銀山は、大山地区亀谷にあった銀山である。天正6年(1578)に初めて銀山が発見されて以来、江戸末期まで「亀谷かね山」としてその名が知れわたっていたことが「大山の歴史」(大山町 1990)にとりあげられている。
また、「大山町史」(大山町1964)、「ふるさと再発見5」(大山 2002)には、銀山の最盛期は慶長元年(1596)から元和4年(1618)頃までの20年余りで、多くの山師が活躍し、有数の鉱山街となったことが紹介されている。 正保年間(1644~1646)には銀の産出が少なくなり、その後は静かな農村となった。
Q「長沢防空監視哨」はどこに置かれていたか知りたい。
『富山県史 通史編 6 近代 下』の[不況と戦争の中の県民生活]の章に“防空監視体制”の項目があり、富山と高岡の監視隊本部と26の監視哨により防空監視が行われたことが詳しく記載されていたが、場所についての記述はなかった。『富山県消防沿革史』(1955)には監視哨配置一覧表があったが、長沢の監視哨は出ていなかった。
『婦中町史』(1967)の[町の保安]の章には“長沢防空監視哨”について記述があり、哨所の位置として婦負郡古里村長沢各願寺境内と記されていた。
Q笹津-南富山間を結んでいた私鉄笹津線が廃線になった経緯を知りたい。
『富山大百科事典』(北日本新聞社1994)の【笹津線廃線反対運動】の項目に大まかな経緯が記されていた。笹津線の運行会社富山地方鉄道が、1971年赤字経営を理由に廃線案を提示、沿線の住民・議会などが反対運動を起こしたものの、1975年やむなく廃線になったということである。詳しい事情は『大沢野町史』(2005)が【現代編・社会】の章に記している。
また『富山廃線紀行』(草卓人・2005)に、1914年富山軽便鉄道として営業開始以来、笹津線がたどった60年余の歴史がわかりやすくまとめられている。
Q大沢野船峅地区にある姉倉姫神社の由緒や、姉倉姫の伝説を知りたい。
『富山県の地名』(日本歴史地名大系16平凡社 1994)は地名事典だが、歴史的建造物や遺構も項目に含め、参照文献を豊富に挙げているのが特徴である。【姉倉姫神社】の項目を引くと、「創建は嵯峨天皇の勧請、宮数五社など…」とあり、数点の文献が紹介されている。
その中の一つ『肯構泉達録』は、富山の歴史・伝説・地誌を記し、文化12年(1815)ごろ成立した書物で、「姉倉姫が能登の石動彦と争って大乱となったため、罰せられ、呉羽の小竹野で機織をして罪を償った」という伝説を巻頭に収めている。
Q大正時代に、総曲輪にあったという映画館「帝国館」の外観の写真を見たい。
「帝国館」は、1985年(昭和60年)に閉館されるまで、長く富山市民に親しまれた映画館である。洋・邦の数々の映画が封切られ、鑑賞に足を運ばれた方も多いことだろう。明治時代に開設された当初は芝居小屋であったが、大正に入って映画が盛んになると、映画常設館に転じた。その後、火災や空襲による数回の焼失を経て、戦後再建されてからは、閉館までに数多くの映画を上映してきた。外観の写真が見たいとの質問なので、当時の総曲輪の様子がわかる資料を調査した。
『総曲輪懐古館』(巧玄舎 1977)には「明治に栄えた芝居小屋「歌舞伎座」が「第三福助座」となり、その名も「帝国座」と改めて映画館に転身したのは、大正6年6月1日の山王さん祭りの日だった。それが大正13年の4月に、映写室から火を出して全焼し、12月に再建されてから「帝国館」になった」との記述がある。
『総曲輪物語』(桂書房 2006)に空襲前の富山市中心部の地図があり、本願寺西別院の敷地内に「映画館帝国館」があったことがわかる。当時の映画館や現在のWIZシネマについて書かれているが、写真は載っていない。(「富山映画劇場」「東洋館」「松竹館」の外観写真はあり)
『ふるさと富山歴史館』(富山新聞社 2001)にも帝国館の写真はない。『とやま映画100年』(北日本新聞社 1999)では富山初の活動写真常設館「富山電気館」が拡充のために「福助座」を買収し「帝国座」に、その後全焼により新築し「帝国館」になったことがわかる。
帝国館の写真は、大正時代の建物、昭和21年に再建された建物のいずれも見当たらなかった。
Q大正12年富山市では秋季学年制を導入し9月に入学式を実施したという。これは富山市独自の制度だったのか、全国ではどうであったか知りたい。
『富山大百科事典』(北日本新聞社 1994)の「秋季学年制」の項目に、富山市の小学校8校で、1923年(大正12)から34年(昭和9)まで実施されたとある。24年の入学児童のうち、早生まれの児童を半年以上繰り上げて23年9月に入学させ、同一学年内に秋季学年組と通常の4月入学の普通学年組の二つが併設される「二重学年制」ともいえるものだったとある。法規上は「小学校令」施行規則の範囲に入り問題はなかったが、当時全国の公立小学校の中に実施校はなく、広島高等師範附属小学校だけが実施したとあった。
『富山市史 通史』『富山市史 通史編 4 近代下』『富山県教育史 下』『富山県の教育史』についても、内容はほとんど上記と同じ簡単な解説があった。
インターネットで「秋季学年制 富山市」をキーワードに検索すると、『国立教育研究所広報 111号』(1997)に収録された『学年制「二重化」の是非』という論文が紹介されていた。この制度は富山市独自のものではなく、1909年(明治42)文部省の小学校施行規則(省令)25条改正によるものであり、全国の状況や導入に至る経過など詳しい記述がある。公立では11府県が実施し、実施校が多く実施期間も長かったのは富山県であったと明記されている。
なお、県立図書館に、当時富山市が発行した『秋季学年制』『秋季学年経緯録』『秋季学年概要』という資料を所蔵している。
Q富山県内のらせん水車について、歴史、仕組み、特色などを知りたい。
『富山大百科事典』(北日本新聞社 1994)の「螺旋(らせん)水車」の項目に写真・図解がある。「戦前の富山平野で爆発的に普及した農業用水車で、東砺波郡南般若村(現砺波市)の鍛冶・元井豊蔵が考案したこと。細長い筒に鉄板の羽を螺旋状に取り付けた水車で、脱穀機や籾摺り機などの動力に利用されたが、戦後電動機に切り替わり60年代には大半が廃止されたこと」の記述がある。
次に「螺旋水車」「水車」をキーワードにした蔵書検索から以下の資料を調べてみた。『富山写真語・万華鏡』は、「鰤」「北前船」「合掌造り」など毎号一つ富山の事象をテーマに、白黒写真と識者の文章を織り交ぜた構成の月刊誌である。57号で「螺旋水車」を取り上げている。富山県は、その地形や豊富な水量をもつ河川に恵まれていることから、当時、改良を重ねた螺旋水車が次々と製作され、農業の機械化に貢献したことがわかる。
『富山民俗の位相』(桂書房 2004)『砺波の民具』(砺波市立砺波郷土資料館 2006)には図や写真と簡単な解説がある。『螺旋水車』(田中勇人1990)は、螺旋水車に関する年表や現存する螺旋水車一覧、農業用水車台数の推移などの資料をはじめ、歴史、種類や仕組み、製作業者の変遷などについて、著者が学生時代から調査した全てが収録してある資料である。
『水車と風土』(古今書院 2001)『水車の技術史』(思文閣出版 1987)の中にも富山県の螺旋水車に関する記述がある。
また、砺波市のチューリップ公園に隣接している「水車苑」や城端町の「城端水車の里」、井波町の「らせん水車の館」などで実物を見ることができる。
Q戦前、富山にあったという芝居の劇場「新富座」が、どの場所にあったか知りたい。
富山は昔から、芝居の人気が高いところである。江戸時代の越中浄瑠璃や歌舞伎から、明治時代の新劇、昭和時代の映画にいたるまで、さまざまな民衆娯楽が、常に暮らしとともにあった。
さて、『富山市史・通史』(富山市 1987)『富山大百科事典』(北日本新聞社 1994)をみると、明治23年、餌指町の中教院前(現在の堤町通り二丁目あたり)に「新富座」が建てられた、という記事がある。惜しくも昭和20年8月の空襲で焼失してしまったが、芝居好きの富山人に愛され、大いに賑わったようで、大正4年、同所で公演をおこなう、初代中村吉右衛門の写真が残されている。
『鼬川の記憶』(桂書房 2004)には、八尾正治氏執筆の「鼬川芝居色彩図」という一章があり、「新富座」をはじめ、いたち川流域にあった劇場7軒を詳細に紹介してある。ここには八尾氏の作図になる「新富座の位置見取り図」が掲載されており、現在の中教院前交差点と、堤町通り交差点の間にあったことがわかる。 同地周辺は他にも、清水座、大正座、演舞館など、多くの劇場・芝居小屋が軒を並べ、富山の演劇の中心地として、活況を呈していたようである。
『富山柳町のれきし』(柳町郷土史刊行委員会 1996)や『明治の富山をさぐる』(水間直二 1979)などでも、当時の状況をうかがうことができる。
Q明治のはじめ、立山を通って長野に抜ける立山新道は、その険しい道程ゆえに維持管理が難しく、わずか数年で廃業し今は残っていないが、その当時の道筋が知りたいので、地図や図面などの資料をみたい。
「立山新道」に関する本は見つからなかったので、類似の「立山道」の本をあたってみる。『富山県歴史の道調査報告書 立山道』や『富山県歴史の五街道』(塩照夫、1992)を探すが、「立山新道」に関する記述は見つからない。
『富山県史 通史編V 近代上』には、立山新道の経路の簡単な説明が掲載されていたが、図はなかった。
質問者から、富山側は旧大山町を通っていたとの手がかりを得て、『大山町史』(大山町1964)、『大山の歴史』(大山の歴史編集委員会 1990)を調べてみると、後者に「日本アルプスを越す立山新道」という章があり、有料道路の開通から失敗までの流れが詳しく書かれていた。その中の545ページには、立山新道見取図があり、ザラ峠~平ノ小屋~針ノ木峠を経由して大町に至る経路図がわかりやすく紹介されていた。
また後日、『異人たちが訪れた立山カルデラ -立山新道と外国人登山-』(立山カルデラ砂防博物館・企画展)の中にも、立山新道に関連する絵図の写真が掲載されていることがわかり、合わせて提供した。
Q富山市岩瀬地区にある「森家」を造った北前船回船問屋の森家(一族)の歴史について、由緒や人物等詳しく知りたい。
ポートラムの開業により、岩瀬地区では観光客が増え、重要文化財「森家」は観光スポットとなっている。この「森家」が建てられた背景を知りたいとのこと。
『越中百家』上下巻や『東岩瀬郷土史』、『東岩瀬史料』等、基本史料をあたってみるがなかなか森家に関する詳細な記録がみつからない。
『富山大百科事典』や『富山市の「文化財・史跡案内」』には、重要文化財となった森家の建物についての記述はあるが、その主あるじであった森家については何も書かれていない。
そこで、森家が北前船の回船問屋であったことから、北前船関係の文献を調べてみると、『バイ船研究』などの資料の中にいくばくかの記述が散見された。
なかでも『加賀藩の海運史』(高瀬保、成山堂書店、1997)には、第8章・北前船の経営の項で<森林太郎家>として簡単な系図とともに紹介されており、一番よくまとまっていた。
Q戦後の富山市で「富山復興の歌」という歌を唄っていたが、1番から3番まで歌詞があったように記憶している。その歌詞の全文を知りたい。
『富山大百科事典』『富山戦災復興誌』『富山市史』などの基本図書や、『観光富山県の歌』(串田清松)『とやまの歌リスト』などの郷土の音楽関係資料をひととおりあたってみたが、この「富山復興の歌」についての記述はまったく見つからなかった。
一方、富山の郷土史に詳しく、当館の図書館協議会委員をつとめておられる須山盛彰先生にお尋ねしたところ、これは昭和20年代の8月1日に行われた戦後復興祭で唄われたものではないかという話を伺うことができた。
そこで、それを手がかりに『富山市史』の昭和20年代前半の記事を探してみた。『富山市史』は編年体で書かれているので、時系列順にたどっていくと、昭和21年から23年にかけての8月1日に復興祭が開催されたという記事が出てきた。
『富山市史』には歌についての記述は何も書かれてなかったため、当時の新聞を富山県立図書館に依頼して調査してもらったところ、富山新聞の昭和21年8月1日号に、市民からの公募で「復興富山の歌」が選ばれたという記事が、楽譜・歌詞とともに掲載されていた。
Q富山市や他の市町村の合併の歴史・沿革について知りたい。
きたる平成17年4月1日に富山地域7市町村の合併予定を控えて、上記のような質問がしばしば寄せられています。
富山市に重点を置いて合併の流れを知りたい場合、『統計から見る富山市』『富山市統計書』などに市域の変遷としてアウトラインが示されていますが、より詳しく調べたい場合は『富山市史 通史〈下〉』をご覧ください。中の〈富山市の誕生〉や〈昭和初期の大合併〉、〈市町村の合併〉といった章段に、富山市域の合併の流れについて詳しく解説されています。
一方、県内全域にわたって市町村の合併の動きについて調べたい場合には、『富山県史 通史編 近代』のほかに『富山県市町村の歩み』(1955)や『富山県町村合併誌』上下巻(1961)などがあります。特に『富山県町村合併誌』は明治期の町村が合併・編入をくり返し現在の市域となっていく過程が表で一覧でき、わかりやすくなっています。ただし、この本は1961(昭和36)年発行のため、それ以降に合併した水橋町・呉羽町については別 個に紹介されています。
このほか、須山盛彰先生が執筆された『富山県における市・町村合併の経緯と問題点』(『自然と社会』第68号別刷 2002)という小冊子があり、最新の情報源になっています。 なお、現今の県内市町村合併の動きについては、新聞記事をまとめたものを参考図書室に備えてありますので、そちらもご利用ください。
Q桃井町の郷土史を作るのに、年代順に古地図があれば見たい。
当館には、江戸時代、明治、大正、昭和(戦前、戦後)の富山市街図の複製を所蔵しています。上記のご質問では、『万治年間富山旧市街図』(江戸初期)『旧富山城下市街図』(天保2年)『富山県上新川郡富山市街見取全図』(明治18年)『富山市街図』(昭和24年)の地図をお見せしました。その他の地図については、『富山市を主とした富山県関係地図総合目録』(富山市立図書館・編)をご覧下さい。
Q現在の富山市立西田地方小学校は、明治の頃、「立志小学校」と呼ばれていたが、富山市で何番目にできた小学校なのか知りたい。
いつ頃創立されたか、という質問はときどき受けるが、上記のような質問は珍しい。さっそく、『富山県教育史 上巻』を調べると立志小学校は、明治6年に創立されたことがわかる。しかし、同年に創立された小学校はいくつもあり、何番目かはわからなかった。そこで、『富山市史 第1巻』『富山市史 通史 下』を見るが明治6年に創立されたこと以外は、載っていない。次に、昭和24年から所蔵している『富山市教育要覧』(富山市教育委員会 編)の昭和26年版を調べると、創立年月が載っており、何番目にできた小学校かが一目でわかるようになっていた。西田地方小学校は、明治6年7月に創立となっており、数えると、10番目にできた小学校だということがわかった。
ちなみに、市内の中学校の創立年月も載っている。
Q福光町で、なぜバットが生産されるようになったのか。
あのイチロ-選手の木製バットも作っている福光町のバット工場。まず、『富山大百科事典』を見るが、記述がない。そこで、『福光町史 上』を見てみると、木材資源の豊富なこの町が大正時代の木製挽物玩具に始まり、戦後、バット生産が盛んになったいきさつなどが、詳しく書かれていた。『ふるさとの味と技~いきいき富山特産ガイド~』にもバット工場についての簡単な記述がある。
