Q八尾和紙が、どのように使われてきたか知りたい。
まず概要をつかむため、和紙について書かれた参考資料を調査しました。『和紙文化研究事典』(法政大学出版局 2012)の「八尾紙」の項目には、主に売薬用紙についての記述がありました。そこには、「薬包紙・膏薬原紙・袋紙・紐紙・荷造り包み紙から帳簿紙・合羽紙まで、厚薄・大小さまざまであるほか、染色したものも含んできわめて多種であった」と書かれていました。売薬用紙以外にも、傘や提灯、障子用の紙がつくられていたようです。
さらに、『富山県史 民俗編』(富山県 1973)を調べました。時代ごとの使われ方の違いについては書かれていませんでしたが、版画用紙、障子紙、提灯紙、傘紙、帳面紙、売薬袋紙などに使われたとありました。「中でも傘紙とか提灯紙がこの八尾紙として有名であった」という記述もみられました。『八尾町史』(八尾町 1967)にも同様の記述があり、産地ごとの和紙の特色が詳しく書かれていました。
次に時代ごとの使われ方を詳しく調べるため、和紙関連の郷土資料を確認しました。『北陸産紙考 下』(紙の博物館 1978)の「八尾産紙と売薬紙」の章に、八尾和紙の歴史に関する詳細な記録が載っていました。八尾和紙の歴史については、「天正十三年(一五八五)、前田氏が領有しない以前は、京都禁裏の御料地であったが、その頃すでに紙が漉かれ、紙の租税を納めていた」とありました。売薬業によって発達する前にも、税として用いられていたようです。その後、八尾和紙のほとんどが売薬で消費されるようになると、両者は密接不離の関係になっていったと書かれていました。
明治時代中期頃から、製紙工場の発達により洋紙が主に売薬紙として用いられるようになりました。すると、売薬紙本位の体制から、傘紙や障子紙など、一般紙を主体とするように切り替えられていったそうです。時代の流れとともに、需要に合った和紙の生産が行われていたことがわかります。
昭和時代には、軍需用紙としても八尾和紙が使われ、「軍需用紙としては火薬包装紙、軍隊手帳用紙、食糧袋紙などであったが、戦時中は風船爆弾用紙も漉いた」と書かれていました。敗戦後には、多量の使い残りが下駄の鼻緒やレインコートに使われたそうです。
時代の移り変わりとともに、さまざまな用途をたどってきた八尾和紙ですが、現在はどのように用いられているのでしょうか。
『富山の地域研究』(東京都立大学 2005)では、「おわら」によって土産物としての八尾和紙が認知度を高めていったと記述されています。一般に流通する紙がほぼ洋紙に切り替わったため、八尾和紙は加工品として生き残りを図りました。しかし、当初は他の紙産地との競合により、少しずつ衰退していきます。
その後、おわらによる八尾の観光化が進んだことにより、多種に及ぶ魅力的な加工品がある八尾和紙が、土産物として注目されるようになりました。
現在では、八尾だけでなく、富山駅前や高岡市の土産店で販売されるなど、富山の代表的な土産物となっています。
Q富山県内に伝わる民話に『金のおの銀のおの』がある。イソップ物語にも同じ話があるが、これらに関連性はあるか。
富山県に民話として伝わっているということだったので、いくつか資料を確認してみると、『富山県の民話』(偕成社 1982)に小杉町(現:射水市)の昔話として「金のおの銀のおの」が記載されていました。〈木こりが斧を池に落とすと、中から水神がでてきて、金の斧、銀の斧を差し出す。正直な木こりが違うと答えると、神は正直者だとほめ、金銀の斧も与える。それを強欲な隣人が真似るが失敗し、自分の斧も失くしてしまう。〉といった内容のお話でした。稗田菫平による再話とのことですが、採取先は書かれていません。稗田菫平の解説によると、正直な爺と欲ばり爺が対比して語られる〈隣の爺〉型の昔話で、『イソップ物語』にもあり、明治時代には国語の教科書にも載っていたということです。
県内に他に伝承されている地域はないか確認するため『日本昔話通観 11 富山石川福井』(同朋舎出版1981)を確認すると、「金の斧」の典型話として富山県射水郡小杉町黒河の話が〈原題・堤で斧もろた木挽〉として収載されています。内容は『富山県の民話』と同じでした。県内に類話はありませんが、福井県南越地方に類話があることがわかりました。上記の資料の原資料として紹介されている『越中射水の昔』(三弥井書店 1971)をみると「堤で斧もろた木挽」として小杉町黒河の黒田弥一郎から採取したと書かれています。この資料には昔話を伝承した人々の紹介や写真があり、昔話が身近なものであったことが感じられます。
『日本昔話名彙』(日本放送協会 1971)を調べたところ「黄金の鉈」の項目で岩手県の同様の話が紹介されていました。この資料では岩手県のほか、福島県・愛知県・大分県に類話があると紹介しています。 また、『日本昔話集成 第二部本格昔話 2』(角川書店 1953)には「黄金の斧」として山梨県の話が収録されており、類話として岩手県・福島県・山梨県・広島県にみられると紹介されています。また中国にも類話があり、イソップにも見られるが世界的に分布しているかは不明、日本の話がイソップによって文献として輸入されたものか、それ以前のものか明らかにすることは困難であるとしています。
『日本昔話ハンドブック』(三省堂 2010)では「『イソップ寓話集』「樵夫とヘルメス」で有名な昔話で、ほぼ本土全体で伝えられる。アジアから東欧、南欧にも分布は広がるが、フランス、ベトナム、カナダ、とフランス語圏の地域が中心となる」との記述がありました。
イソップとの関連性は確認できませんでしたが、多くの地域で魅力的な昔話として親しまれてきたようです。
Q昔、八尾では、正月に自宅の天神様の前で「天神経(てんじんきょう)」というものを唱えたということを聞いたが、どのようなものだったか知りたい。
図書館には、各地の習俗やならわしに関する質問が多く寄せられる。今回は、富山のお正月に関するレファレンスを紹介する。
はじめに、民俗、宗教、歴史等の事典を調べてみる。『日本民俗大辞典』(吉川弘文館 2000)「天神信仰」の項には、菅原道真の霊をまつる信仰であることやその歴史的背景に加え、「石川・富山を中心に北陸地方でみられる信仰。富山県では天神様は正月神とされている。」との記述がある。『日本の神仏の辞典』(大修館書店 2001)には、「江戸時代には庶民の教育機関の寺子屋を中心に信仰が広まり、「天神経」が読誦された。」と記し「天神経」について若干触れている。また『菅原道真事典』(勉誠出版 2004)を確認したが、「天神経」の記述は見当たらなかった。
次に、郷土資料を調べてみる。『富山大百科事典』(北日本新聞社 1994)では、天神信仰のあらましから北陸での普及経緯を記している。「天神絵像・木像を祀るのは、北陸では富山・石川県が多い。・・・天神習俗(天神経、うそかえ神事、正月の天神様飾り付けなど)の盛んなことが窺える。」とあり、富山県内の「天神経」の存在が確認できた。
『富山県史 民俗編』(富山県 1973)には詳しい記述がなかったため、視点を変え、寺子屋と天神経に関わりがあったことから『富山県史 通史編Ⅳ近世下』「学芸と教育」の章を見てみる。ここでは「寺子屋における天神信仰の表れとして、天神講・席書きや、天満宮・天神堂の建立、天神経の読誦をあげることができる。」「天神講や正月の書初めの折に「天神経」を読誦した例を八尾町にみることができる。」とし、『富山史壇78号』前田英雄氏論文を紹介している。この論文には「50歳以上の人々が学童のころ、どの家でも天神様を飾った祭壇の前で「天神経」をあげそれから書初を書いたという。」と述べ、八尾町冨士原氏が所蔵する「天神経」の経文が記されていた。
さらに、地元八尾の資料を調べてみる。『続八尾町史』(八尾町 1973)付録部分に、「天神経」が記されており、経文とひらがなの読み、解説が記されている。これには『富山県古楽民謡採録採譜事業中間報告その1』(富山県 1972)によるとの注がついていたが、この資料には「天神経」部分は省略されていた。
そこで、この事業を1冊にまとめた『富山県の民謡』(北日本新聞社 1979)を見てみる。この資料は、富山の民謡をはじめ、わらべ唄なども幅広く集め、県下の伝承歌を確認するのには大変役立つ基本図書である。ここでは、明治27年生まれの方から採録した「天神経」が記録されており、楽譜も付けられていた。解説には「正月二日には、子供たちが朝早く起きて、天神の前で書初をして、字の上達を祝う。これを「トシトク」と言い、その際に家族みんなが集まって、八尾独特の「天神経」を読む。これは経文であり、子供たちに意味がわかるはずもないが、祖先からずっと暗唱で伝えられてきているものだ。」とあった。 このほかに、青柳正美著『学芸の神 菅原道真 天神信仰と富山』(北日本新聞社1986)には、「天神経」の本文をはじめ、八尾に伝わる経文も記録されていた。また、八尾町出身の成瀬昌示著『越中八尾細杷』(言叢社 1993)には、自身の体験を交えた「天神経」の解説が記され、興味深く読むことができる。
Q神社で行われる「うそかえ」という行事について知りたい。富山県では、どのように行われているのか。また、その行事の中で「かえもの」というものが神社より配布されるらしいが、どのようなものなのか。
神社で執り行われる神事のひとつ「うそかえ」。 『日本国語大辞典』(小学館 2001)の「うそかえ」の項目を見ると「うそ」には、鳥の「鷽(うそ)」の字が当てられ「鷽替」と書く。鷽替の神事、鷽替祭とも呼ばれ、「福岡県大宰府、および東京都江東区亀戸天満宮などで参詣人が木製の鷽を替え合う神事。昨年の凶をうそにして今年の吉に取り替える意という。」とある。鷽は、天神の御使鳥とされ、「鷽」が「嘘」に通じていることや日本各地でこの神事が定着していることがわかった。
同辞典で「かえもの」を引くと、「換物神事」の項目があり、この神事で取り替える品々を指す。
次に日本全国の年中行事を網羅した『年中行事大辞典』(吉川弘文館 2009)を見ると「大宰府天満宮鷽替神事」の項目があった。これによると、鷽替は正月七日の夜に行われ、参詣人が暗闇の中で「替えましょ、替えましょ」と言いながら、木鷽を交換してゆく。この群集の中に神職が密かに黄金の鷽を紛れ込ませ、最後にこれを持っていた者は、一年の幸運を手にすることができたという。しかし、その取り替え事は、時とともに変化し、現在では、参詣者があらかじめ番号の付いた木鷽を買い求め、後に当選番号が発表されることがわかった。また、この資料では、鷽をかたどった木製の「かえもの」の写真を見ることができた。
それでは富山県内では、どのように換物神事が行われているのか、郷土資料より民俗・風習関連の資料を調べていく。
富山の伝承行事や習俗の論考をまとめた『とやま民俗文化誌』(シー・エーピー 1998)には、「富山の天神さま」として親しまれている富山市於保多町にある於保多神社の「ウソカエ神事」の記述があった。県内で行われる鷽替で最も有名なのは於保多神社であり、5月25日に行われる。「かえもの」の鷽は、木製ではなく土人形で、かつては、大宰府天満宮と同じく参詣者同士が鷽を交換していたが、現在は、参詣者が番号付きの鷽を手にし、後に発表される当たり番号の鷽を持つ者は、神社より賞品がもらえるとある。
『ふるさとの風と心 富山の習俗』(桂書房 1986)には、於保多神社で当たり番号の鷽を手にし、喜んでいる家族のほほえましい写真が掲載されており、当時の賑やかな神事の様子をうかがう事ができる。また、取材メモとして、鹿島神社の「シカ替え」、諏訪神社の「亀替え」、千歳神社の「鶏替え」、などがあったが、戦後すたれ、現在では於保多神社と諏訪神社が現存するとあった。『とやまの年中行事』(富山県教育委員会 2008)では、於保多神社の鷽替と諏訪神社の亀替の簡単な解説とともに、素朴な土人形のかえものの写真を見ることができる。
宗教関連の本では、『富山の寺社』(巧弦出版1978)、『とやま癒しのパワースポット』(北日本新聞社 2012)に於保多神社の歴史と鷽替神事についての記述があった。
また、富山のかえものは土人形であることから、 郷土玩具の資料を調べると『全国郷土玩具ガイド 1』(オクターブ 2004)には、鷽や亀のほか、戎(えびす)神社の鯛など、かつて県内で使用されていた約20種のかえもののカラー写真があった。
於保多神社に問い合わせたところ、近年、鷽替は行っておらず、また具体的な開催予定もないそうだ。いつかこの伝統的な祭礼を復活させることができたらということだった。
Q南京玉すだれの、様々な形の作り方を知りたい。
大道芸の一つとして知られている南京玉すだれ。竹ひごを糸でくくり、すだれ状に編みこんで、伸び縮みするように作った玩具で、「しだれ柳」や「橋」など、いろいろな形を見立てることができる。「ァさて、ァさて、さて、さて、さて、さて、さては南京玉すだれ」などの口上とともに、目にしたことのある方も多いのではないだろうか。
まず、『イラスト事典 大道芸大全』(同文書院 1998)を調べてみる。南京玉すだれの源流が、五箇山の民謡「こきりこ」で使われる楽器の「ささら」にあることや、南京玉すだれの口上があったが、形の作り方は掲載されていない。『図説江戸大道芸事典』(柏書房 2008)では、「すだれで見立てるものにはいろいろな名称がついており、丸い輪をつくれば仏像の光勢、満月、細長く伸ばせば釣竿、持ち方を変えれば、橋の欄干などになる」との記述があるが、具体的な形の作り方については載っていない。
さらに手がかりを求めて、国立国会図書館のホームページ(https://www.ndl.go.jp/)から「レファレンス協同データベース」で、「南京玉すだれ」をキーワードに検索してみる。これは、国立国会図書館が全国の公共図書館等と協同で構築しているデータベースで、事業に参加する図書館が、一般の方々の情報探索や、図書館員のレファレンス業務に役立つ情報を、随時登録している。
「南京玉すだれ」に関する事例は3件あったが、いずれも、形のつくり方が掲載されている書籍資料については紹介されていなかった。
さらに、複数の辞書、事典を中心にした情報源から一括して検索できるデータベース「ジャパンナレッジ」で「南京玉すだれ」を検索してみると、「日本南京玉すだれ協会」(https://tamasudare.org/)が紹介されており、協会ホームページへのリンクがあった。
ホームページを見ると、「玉ちゃんすだれちゃんの玉すだれ教室」というコーナーに、「技の紹介」として簡単なイラストで「釣竿」や「万国国旗」といった技が紹介されていた。また、「南京玉すだれの歴史」のコーナーでは、富山県南砺市上梨の白山宮が南京玉すだれの発祥の地として認定されたとして、その際の北日本新聞の記事が掲載されていた。
富山県立図書館ホームページ(https://www.lib.pref.toyama.jp/)にある「郷土資料情報総合データベース」で「南京玉すだれ」を検索すると、新聞雑誌記事の項目に、関連する記事の掲載情報が複数挙がっている。日付の新しいものでは、2011年7月3日に「日本南京玉すだれ選手権大会」が南砺市上梨で開催された折の記事の情報があった。
また、関連する資料を調査したところ、最近のものでは、「南京玉すだれ入門」(鳥影社 2009)が出版されていることがわかった。南京玉すだれが富山に縁の深いものであることから、今後の利用が見込まれると考えられ、当館で1部購入した。
資料を確認してみると、「南京玉すだれ 実演」として、「東京タワー」や「桜鯛」などの形が、実際の演者の写真や口上とともに多数掲載されていた。
南京玉すだれで様々な形を作る際には、この資料がわかりやすいようであった。
Q岩瀬曳山車祭について知りたい。
岩瀬曳山車祭は、毎年5月17日、18日に行われる岩瀬諏訪神社の春季例大祭である。曳山車は、お囃子や木遣り唄とともに曳き回され、夜には各町内が激しくぶつかり合う荒々しい曳き合いが繰り広げられる。毎年趣向を変え工夫がこらされた「たてもん」も、見所である。岩瀬地区では老いも若きも一年で最も心待ちにしている行事で、その起源は万治二年(1659年)といわれている。
瀬曳山車祭に関する本には、「岩瀬の曳山」(富山大学人文学部1991)「岩瀬曳山車祭」(岩瀬曳山車祭調査会1992)などがある。
Q盆行事の「お精霊(しょうらい)」とは、どのようなものなのか知りたい。
「お精霊」は、先祖の霊を呼び寄せる意味の火祭りである。『富山民俗の位相』(桂書房 2002)や『とやまの年中行事』(富山県教育委員会 2008)を調べると、富山県中央部を中心に、8月13日に行われていることがわかった。川べりで「お精霊 お精霊」と叫びながら火のついた松明を回したり、川原にやぐらを組んで大火をたくなど、地域によってさまざまな違いがあった。
他に『習俗 富山歳時記』(巧玄出版 1973)や、『富山の祭と行事』(巧玄出版 1974)に掲載されている写真や図版も参考になる。
Q富山県内の獅子頭の写真が多く掲載されている資料を見たい。
富山県は獅子舞の盛んな地域である。『富山県の獅子舞』(富山県教育委員会 1979)や、『とやまの獅子舞』(富山県教育委員会2006)では、県内の各地域の獅子舞について、豊富な写真と共に解説されていた。
また、地域ごとに特化した資料として、『新湊の獅子舞』(荒木菊男 1995)や、『氷見の獅子舞』(小境卓治 2000)といったものもあり、その中でも『氷見の獅子頭展』(氷見市 1986)には、多数の獅子頭の写真が掲載されていた。
Q現在の県展は昭和21年から開催されているが、戦前に県展の前身となる展覧会や組織があったのか調べたい。
『富山大百科事典』(北日本新聞社 1994)によると「県展」は1946年(昭和21年)に創設された本県最大規模の公募美術展。正式名称は富山県美術展覧会。富山県展は国内でも創設時期の最も早いものに属することがわかった。ただし、前身となる展覧会・組織についての記載事項はなかった。「美術展」の項目をみると、「1941年(昭和16年)に本県における最初の総合美術展ともいうべき富山文化協会綜合美術展が開かれている」という記述がある。
『県展の草創期に活躍した作家たち』(1995 県展50回記念展実行委員会)は「県展関連年表」として1941年(昭和16年)から1960年(昭和35年)までの県内の美術界の動きが年表でわかるようになっている。また収録されている久泉迪雄「県展、その創設前後のことども」では、大戦前後の活動の様子がうかがえる。富山県民会館美術館学芸員稲塚展子は同書のなかで県展の前身ともいえる展覧会として、富山文化協会綜合美術展をあげている。この資料には 県展開催状況一覧表と受賞者一覧が昭和21年の第1回から平成7年第50回まで記載されている。
『昭和のアルバム 富山の文化往来』(1989 富山新聞社)の久泉共三によれば、第1回県展をおこなう中心となった人物は、疎開してきて富山にとどまっていた人たちと県内在住の作家たちであるそうだ。県商工課の協力もあり、第1回県展を開催できたとしている。
これらの資料から見ていくと、直接的に前身となった組織があったわけではないが、県内にある美術に関する深く熱い想いが戦前の美術展開催から戦後すぐの県展開催につながったのではないかと思われる。
Q八尾にあった丸山焼について知りたい。
『八尾町史』(八尾町役場 1977)の「町人の文化 丸山焼」には、「文政十二年(一八二九)の頃、越中国婦負郡丸山村の甚左衛門が開窯したものである」の記述があり、『富山大百科事典 上巻』(北日本新聞社 1994)には、「越中丸山焼」の項目に「婦負郡杉原村丸山(現八尾町)で営業した陶磁窯」とある。
『杉原地区と文化』(八尾町杉原地区文化財保存顕彰会 1956)中の「丸山焼」の項は、杉原村居村の山田兵庫老の稿を転載したものである。創窯から終窯に関する記述と窯元たちの略系図がある。創窯の時期については、文政12年(1829)が有力と注記にあり。明治27年に終窯となっている。丸山焼の祖:甚左衛門や窯の盛衰に関する詳細な記述がある。
『越中の焼きもの(富山文庫)』(巧玄出版 1974)の巻頭カラー図版の中に、「越中丸山焼 色絵牡丹文小鉢」がある。「江戸時代の多様な展開」の項には、染付高杯や香炉、窯跡碑の写真と共に「丸山焼系の窯 越中丸山焼」が収録されている。
『私たちが見出した八尾町に遺したい文化財候補者たち』(八尾町教育委員会 1995)、『文化誌日本 富山県』(講談社 1987)には、丸山焼数点の写真と簡単な解説がある。
なお、県立図書館に、1928年頃に杉原村役場が記録した『丸山焼沿革並出品目録』(10丁 25cm)や1935年に富山市立図書館が記録した『陶器丸山焼鑑賞会出品目録』(7p 26cm)、1975年に富山市郷土博物館が編集した『越中丸山焼展』(4p 26cm)などの資料を所蔵している。これらの記録や編集物は、当時展覧会に出品された丸山焼の種類や出自がわかる貴重な資料となっている。
Q〔お〕を「大きいお」、〔を〕を「小さいを」と呼ぶのは、富山県固有の習慣だと北日本新聞に紹介されていた。全国的または一般的にはどんな呼称を使うのか。
『日本国語大辞典』(講談社 2001)、『広辞宛』(岩波書店 1991)、『大辞泉』(小学館1995)の国語関係辞書には、用法・用例は記載されているが、呼称の違いなどの説明はない。方言関係図書『とやまのまちのことば』(廣文堂 1983)、『おらっちゃらっちゃの富山弁』(北日本新聞社 1992)、『日本のまんなか富山弁』(北日本新聞社 2001)なども調査したが呼称に関する記載はない。
手がかりを得るためにインターネット検索をしてみると富山県固有であるとの情報が多い。その中に参考文献として『都道府県別 気持ちがわかる名方言141』(講談社α新書 2005)が紹介されており、県立図書館に所蔵していたので借用した。《小さい「お」=助詞の「を」、その呼称には各地にバラエティーがあり、「腰曲がりのお」「かぎのお」「重たいお」など。ちいさい「お」と表現する地域はほぼ富山県に限られる。》と書かれており、2頁ほどの解説があった。
現在の小中学校ではどのように教えられているのか教職員や児童に尋ねてみたが、質問の呼称はあまり使っていないようである。「あ行のお」「わ行のを」「おとうさんのお」「くっつきのを」「接続のを」などと表現されているらしい。
Q富山の名産として有名な「鱒のすし」の歴史や由来、作り方を知りたい。
富山県のことを調べるときはまず『富山県大百科事典』(北日本新聞社1988)である。「鱒のすし」の項目には、作り方と歴史・由来の簡単な記述がある。『とやまの特産物』(富山県食品研究所 2003)、『ふるさとの味と技』(富山県貿易物産振興会 1985)には簡単な歴史や由来が紹介されている。
今から200年ほど前の享保2年(1717)、三代藩主前田利興の家臣吉村新八が神通川で獲れるマス(鮎という説もある)と上質な越中米を用いてますずしを作り、将軍吉宗に献上したのが始まりとされる。
次に、何か写真とともに紹介してあるものがないかと探してみた。すると、『味のふるさと 14 富山の味』の「マスずし」ページに、詳しい作り方が写真とともにわかりやすく載っていた。
また、富山県に関する事項について特集して出版されている『富山写真語 万華鏡 6』は「鱒のすし」である。これには、すしの歴史や由来、駅弁としての「鱒のすし」について詳しい記述があり、もちろん作り方についても写真はついていないが詳しく書いてある。『日本の郷土料理 6 北陸』(ぎょうせい 1986)には、「鱒鮓」として見開き2ページに歴史や由来、作り方が写真とともに紹介してある。これらの他、ガイドブックなどにも簡単な記述を見ることができる。
Q幼少の頃に母親がよく作ってくれた、いわしの「こんか漬け」の作り方を知りたい。
はじめは、魚の漬け物の本はないかと言う質問だったので、料理関係の中から、次のような資料を提供した。
『新しい保存食〈梅干しからおもてなし料理まで〉』(文化出版局)、『釣魚料理』(成美堂出版)。どちらも味噌漬け、粕漬け、南蛮漬けなど一般的によく作られるものは、掲載されている。
話を聞いていくうちに、本当に知りたかったのは上記の質問とわかり、郷土関係図書に載っていると思われるので、調査の結果、次の資料を提供することができた。
『聞き書富山の食事-日本の食生活全集16-』(農山漁村文化協会)、『とやまのふるさと料理 秋冬・人生編』(巧玄出版)。どちらも富山の伝承料理を多数掲載している。懐かしい味に出会える一冊である。
Q富山市の中心部を流れる松川べりに彫刻がいくつもあるが、それらがすべて紹介してある資料をみたい。
最初に、『富山大百科事典』(1994年 北日本新聞社)をみると、松川べり彫刻公園の項に“水と緑のプロムナードをテーマに、県内の代表作家28人の彫刻作品を設置した”と書かれているが、具体的な作品の記述はない。
次に、『富山の野外彫刻』(1991年 桂書房)をみると、9つの作品の写真と解説がされているが、それ以外の作品については記載されていない。
そこで、富山市の観光振興課に問い合せたところ、パンフレット、「松川べり彫刻公園~彫刻作品ガイド~」があり、写真、設置されている場所および全作品の紹介がされているということだった。
ちなみに、数部を図書館にいただくことにした。
Q越中おわら節について調べるため昭和4年に出版された『小原節大全』を見たい。
自館の蔵書を検索しましたが所蔵していませんでした。富山市立図書館は昭和45年に開館したためそれ以前の図書はあまり所蔵していません。そこで『富山県郷土資料総合目録』を見ると、小杉町立図書館で所蔵していることがわかり、県立図書館をつうじて取り寄せました。この図書館で所蔵していない図書も県内の図書館や国立国会図書館から借用できることがあります。
Q水島柿の名前の由来を知りたい。
柿がおいしい季節。上記のような質問を受けた。
そこで、『果実・種実』(新・食品事典 6)を調べるが出てこない。次に、『カキ・キウイ』(果樹全書 農文協・編刊)を調べると、北陸地方で栽培される甘柿と記されていた。
もしやと思い、『富山大百科事典』を見ると、射水郡原産の甘柿の品種名である、と書かれていたが名前の由来までは載っていなかった。
次に、『ふるさとの味と技 いきいき富山特産品ガイド』『富山の特産』を見ると、大正2年に富山農会が発行した『園芸要鑑』には「今より200年以前、片口村大字大場村の住人前川弥三郎なるもの果樹の栽植に熱心にして…、栽培を村民に勧めたる結果射水一円の特産として名声遠近に知られるに至れり…」と記されていると、載っていた。しかし、由来まではわからない。
そこで、『新湊市史 近現代』を見ると、「江戸時代の中頃から当地域を中心に射水平野一円にわたり、各家の屋敷内に栽培され、それは主として自家で消費するためのものであった。」と書かれているが、それ以上はわからない。もう一冊、『片口今むかし』(市立片口公民館片口今むかし編集委員会 編)を見ると、「昭和50年市指定天然記念物。高場が発祥地で、明治になって水稲奨励優良品種「水島」にちなんで命名された」と書かれていた。
これで答えが出たようなものだが、もうひとつ納得がいかない。そこで、『新湊の文化財』(新湊市教 育委員会 編)を見ると、明治の頃の水稲の品種で味・収穫ともに優れていた「水島」から名付けられたと付け加えられていた。
